“稀代の悪女”と呼ばれた逃亡者・福田和子。
1982年、当時34歳の和子は同僚のホステスを殺害して逃亡。整形手術で顔を変え、いくつもの偽名を使い、警察の追跡を間一髪で切り抜けるなどしたものの、14年11カ月、5459日間にも及ぶ逃亡の末、時効の約21日前に逮捕された。
まるで映画のような展開に日本中が騒然となった。

和子には“凶悪犯”や”魔性の女”などと言われたイメージを打ち砕く、もう一つの顔があった。
その"シンソウ"は、和子の長男が握っていた。
8月2日に放送された「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、長男から何度も直接話を聞き、和子の本当の気持ちを、母親としての物語を初めてドラマ化した。
(※再現ドラマはプライバシー保護等のため一部再構成しています)
「当分、帰ってこれない」消えた母親に殺人の容疑…

1982年8月19日、愛媛県松山市。
当時、14歳だった長男・智之(仮名)は、母・和子から「当分、帰ってこれない。おばあちゃんのところに行っておいて」と言われたという。祖母の家では「テレビは禁止」と言われていたが、異変を感じた智之は夜中にこっそりテレビを見てしまった。
すると、画面には手錠をされた父親の姿が映り、逃げている母親には殺人の容疑がかかっていることを知る。
当時のことを智之は、「体の奥から叫びたい気持ちがこみ上げてきた」と振り返るが、妹や弟たちのために自分がしっかりしないと、と自身に言い聞かせたという。
その一方で、母親を恨む気持ちは欠片もなかったと話す智之。

のちに「松山ホステス殺人事件」と呼ばれたこの事件。
借金があり、スナックのホステスだった和子は、当時の不倫相手に「裕福な家の出身だ」と見栄を張っていた。その嘘を繕うため、店のナンバーワンホステスの部屋にあった高価な家具に目を付けたという。和子はそのナンバーワンホステスの部屋で酒を飲み、着物の帯締めで首を絞め、殺害。
その後、事情を知らない夫や親せきを使い、現金や家具など334点、総額951万円相当を運び出し、車に遺体を積むと、自宅へ戻り、夫と二人で遺体を山の中に埋めた。
夫は何度も自首を勧めたが、和子は拒み、そして逃げた。
事件から数日後、夏休みが明けた智之は、父が逮捕され、母が逃げていたことで、学校へ行くのが憂鬱だったと振り返るが、学校での反応は違い、同級生には気遣われ、励まされた。
しかし父方の祖母は、周囲の目も気になったのか、智之と上の妹は和子の実家へと引っ越すこととなった。
人を殺して自分たちを捨てた母親を、長男は慕い続けたという。
取材をしたノンフィクション作家も「『福田和子ってどういうお母さんですか?』と聞いたときに、長男は『尊敬できるお母さん』と。ちょっと理解できなくて。すごく仲のいい親子であっても、突然、思春期の子供を放って、殺人を犯して逃げちゃうわけですから、恨んでもいいんですが…。確かに恨んだことはないと言った。福田和子は理想的な家庭をわずかな期間ですが築いていた」と話す。
和子の逃亡から数か月が経った頃、智之の元に和子から電話が掛かってきた。その後、智之と和子は月に1度電話で話すようになったという。
長男は"親戚の子"として和子と暮らし始める

事件から4年経ち、智之は18歳になっていた。
その頃、智之は実の父親の家で暮らしながら定時制の高校に通っていたが、電話で和子から「近いうちに会いに行く」と告げられ、和子と再会。和子から「こっちに来ない?」と誘われ、母親が人を殺していることは考えないようにしながら、和子について行った。
日本海に面する穏やかな町に着いた智之は、和子は「小野寺華世と名乗っている、智之は親戚の子」ということにして欲しいと説明される。
和子はこの町のスナックで妻子ある店舗経営者と知り合っていた。ほどなくしてその男性は妻と離婚。和子は、内縁の妻として男性の家で暮らしていた。
和子が来てから店は繁盛していたようで、智之は事件のことは忘れたわけではないが、幸せだったと話す。
男性も和子の正体について気づいていたのかもしれないが、何も言わなかった。だが、幸せな日々は終わりに近づいていた。
1988年2月12日、警察が和子を探していることを察知すると、和子は自転車を必死に走らせて、逃げた。

刑務所を恐れる理由があった
和子は、どうしても刑務所には入りたくなかった。
18歳の時、交際していた男とともに強盗事件を起こした和子は、松山刑務所内の拘置施設に入ったが、そこは暴力団に支配され、半ば無法地帯と化していた。和子はその刑務所の中で、看守と結託した暴力団員に性的暴行を受けてしまうという過酷な経験をしたため、また刑務所に入ることを恐れていた。
1991年、智之は23歳になった。
再び祖母の家へと戻った智之は、アルバイトをしながら暮らし、また電話で和子と話すようになっていた。智之は自身の結婚相手も、和子に報告し紹介した。
1992年、和子の逃亡から10年が経ち、時効まで5年と迫る中、未解決事件を取り扱う番組などでも取り上げられ、さらに事件が注目されるようになった。
時効まで1年と迫った1996年には、警察が「日本初の懸賞金」という前代未聞の手を打つ。

さらに、警察は親族や知人に掛けてきた電話を録音した和子の声を公開。
翌1997年は時効の年。報道はさらに過熱した。
潜伏先の福井で、和子が行きつけだった飲食店の店主がテレビで和子の声を聞き、通報。
時効まで21日と迫った1997年7月29日、和子は逮捕された。
智之は29歳になっていた。
「母を恨む気持ちは欠片もありません」
逮捕から2年後の1999年5月31日、松山地裁で判決公判が開かれた。
33枚の傍聴券を求めて1574人が並んだ。
和子に下された判決は「無期懲役」。
争点となった計画性の有無については「計画性はない」と判断されたが、求刑通り、無期懲役に処された。
「身勝手で冷酷な同情の余地のない犯行で、享楽的で快楽的な逃亡生活は非難されることこそあれ、有利な事情とはなりえない。取り調べでの虚偽の供述、遺族へも積極的に謝ろうとはしない」。それが無期懲役の主な理由。
2003年に刑は確定したが、2005年、和子は刑務所内で倒れて緊急入院した。

智之は37歳になっていた。
病名は、脳梗塞。病院に着いた智之は、和子の手を握り「ママは強いけん。大丈夫や」と語りかける。智之が和子と触れ合うのは、妻を紹介して別れて以来で14年もの月日が経っていた。
智之が「ママ、ありがとうね。ママ」と告げると、和子は静かに息を引き取ったという。
和子の手記「涙の谷」の編集者・平田静子さんは、獄中の和子から送られてくる手紙を読み続けていくうちに、虚実ないまぜの人生の中に、一つだけ確かな真実があると感じたという。
平田さんは「嘘の上塗りみたいなこともあったんだけれども、子どもを思う母親の情とかは本物。一緒にいる時間は普通の家庭よりうんと短いんですけど、その情の深さが本当にお子さんたちに伝わって、母親の愛情は子どもたちにひしひしと受け止められたんじゃないか、と。お子さんたちは立派に育って、良い大人になられているんですよね」と話した。
それから智之は、それなりに堅実に働いて、家族と幸せに暮らしているようだ。「母を恨む気持ちは欠片もありません。あるのは感謝の思いと、自分の子どもにも同じように愛情を注いでいきたい、そんな望みだけ」だという。

スタジオでは坂上忍さんは「長男は内縁だった男性ともお付き合いがあるようです。30年以上前に1年半暮らしただけなんですが、家族に近いつながりをいまだに持っているということです」と話した。
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