「24時間戦えますか」

ひと昔前、世の中がバブル経済に沸いていた頃、当時の働き方を象徴するあるキャッチコピーが流行ったのを覚えているだろうか。

「24時間戦えますか」

ヒットした栄養ドリンクのCMだった。今のご時世からすれば信じられないだろうが、それでも流行っていたということは、時代の要請に合っていたのだろう。

 
 
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確かに当時は「ハードな労働」を誇りにする、もしくは自慢する人も多かった。睡眠時間が少なく休みがない。健康診断を受けていない、受けても数値が悪い。酒量自慢、武勇伝、度を超えた散財。冷静に考えれば全く褒められた話ではないが、自分の不遇や不幸さえも笑いや話題に出来る明るさと余裕が社会にあったのだろう。会社にも個人にも、お金があったから。

海外から「エコノミックアニマル」などと侮辱されてもあまり気にする風潮はなかった気がする。それだけ日本人はノリにノっていた。当時の言葉ではブイブイ言わせていた。

 
 

考え始めてしまった“アニマル”

だが、しかし。そのアニマルたちは幸か不幸か、バブル崩壊と共に考えてしまった。僕らはこのままでいいのだろうか、お金優先主義でいいのだろうか、幸せなのだろうかと。そして心の豊かさの追求、つまり幸せになるという曖昧で抽象的な夢に魅せられてしまったのではないか。それは個性の尊重であり、プライバシーの重視であり、ゆとりの確保であったとは言えないか。

 
 

当時は怖くて愛想の欠片もない上司に「お前いらねえ」「あしたから来なくていい」とキツく言われても、飼い主に甘える犬のごとく上司に付いていくのが常だったが、そうした上司も部下も少なくなった。会社や組織よりも自分を大事にする考えが台頭し、義務と権利のバランスが変化した。公(おおやけ)の意識も希薄になった。

だが、幸せを求めることと幸せになることは違う。「禍福はあざなえる縄のごとし」「好事魔多し」「災い転じて福となす」。昔の人たちは幸せと不幸は常に紙一重だと考えた。

幸せを求めるということは、今は不幸であるという前提の考え方ではないのか。幸せに向かう、その先に本当にゴールはあるのか。幸せか不幸かを考える余裕がなかった昔の方が幸せだったのではないか。

評価を気にしてしまう人間

もうひとつは評価の問題だ。不遇・不幸自慢の人は、普通の自慢話と同じく、おそらく周囲に「すげぇ!」と言われたかったのだと思う。今でいう「いいね!」に相当するものだ。

人には周囲からちやほやされたい、認められたい欲求がもともとある。なぜなら社会には常に他者がいて、境遇や自分の地位を他者と比較してしまいがちだからだ。無人島で自分を自慢したところで、聞いてくれる人も比較する対象もなければ意味がない。だから「すげぇ」と言われることは遮二無二働くモチベーションになる。

ちなみに私の敬愛する「寅さん」はそうした他人との比較と全く無縁である。あるのは相手に対するまっすぐな気持ちと、いわゆる「人の道」だけだ。人を羨むこともなければ、人に媚びることもない。だから相手の年齢も、学歴も、社会的地位も関係なく、同じように接することが出来る。せいぜい惚れた美女に対し子どものような虚勢を張るくらいだ。そんな人はなかなかいないから愛される。

©2019松竹株式会社
©2019松竹株式会社

とにもかくにも近年、ゆとりやプライベートのために、働くことが調整・制限され始めた。「僕は働きたいんです!『すげぇ』と言われたいんです!」という人が働けなくなってしまった。ちやほやされたい欲求はそのままなのに。その結果を想像してみよう。
働く時間が少ない→結果が出ない・または不幸自慢が出来ない→「すげぇ」と言われたいのに言われない→自分の価値はあるのか?と疑心暗鬼になる→精神的に病んでしまう。そんな過程をたどる可能性はないだろうか。

確かに「皆が休んでいる時によく働いてくれたな!お疲れさま」と言われれば嬉しい気持ちになるだろうが「このクソ忙しい中でよくぞ休んでくれた!ありがとう」などと言われても嫌味にしか聞こえない。

「すげぇ!」中毒から抜け出すには、全員が仏門に入って全ての欲から解放される、あるいは「カースト制」を導入してその身分をガチガチに固定する等の案が頭をよぎるが、いずれも現実的ではあるまい。

もちろん「もっと働かせろ!」と言っているわけではない。人によってそれぞれ感じ方が違うのに、それを法律で一括りにすることがどうなのかという話だ。「そんなこと言われても決まってしまったもんは仕方ねえだろ」という理屈はもちろん承知している。

「働かせる自由」と「働く自由」

 
 

日本のアニマルたちが仕事の「自由」について考え始めた頃だったと思うが、「職業選択の自由あはは~ん」というCMも流行った。「あはは~ん」の意味が不明で、最後に「じ~ゆ~う」という言葉が連呼され、少々不気味な雰囲気も漂った。

働き方改革の文脈でこの「自由」を考えると、「働かせる自由」の裁量はやはり狭まることになるのだろう。働く側のモチベーション維持や部下との信頼関係の構築はどの時代であっても重視されるべきだし、常に留意しないといけないことだ。

ただ.繰り返しになるがこれが「働く自由」にまで及んでいいのか。前述の不遇・不幸自慢の他にも、目の下のクマやヨレヨレのシャツなど、自分の疲労感を外見に訴える「自己陶酔型」の働きたい人、仕事の後のビールを何よりの生きがいにする「ごほうび型」の働きたい人もいた。最近ではあまり見られないが、潜在的には今もいるだろう。ある意味彼らの「楽しみ」を奪ってしまうことに違和感を覚えるのは私だけだろうか。

年末に「男はつらいよ」50作目が公開された ©2019松竹株式会社
年末に「男はつらいよ」50作目が公開された ©2019松竹株式会社

「困ったことがあったら風に向かって俺の名前を呼べ」

これは駅のホームで別れを惜しむ甥っ子の満男に寅さんが伝えた言葉である。私の大好きなシーンのひとつだ。「呼んでみたいな~」と常々思っていたが、満男演じる吉岡秀隆さんが「男はつらいよ」の50作目「おかえり寅さん」公開の舞台挨拶で「随分名前を呼んだんですけど・・」と明かしていた。

困っている人は存外に多いのだなと思った次第である。
「男も女も、みんなつらいよ」そんな時代だ。

(フジテレビ政治部デスク 山崎文博)

山崎文博
山崎文博

FNN北京支局長 1993年フジテレビジョン入社。95年から報道局社会部司法クラブ・運輸省クラブ、97年から政治部官邸クラブ・平河クラブを経て、2008年から北京支局。2013年帰国して政治部外務省クラブ、政治部デスクを担当。2021年1月より二度目の北京支局。入社から28年、記者一筋。小学3年時からラグビーを始め、今もラグビーをこよなく愛し、ラグビー談義になるとしばしば我を忘れることも。