30年という時間を短いという人はあまりいないと思う。ただ、これからの30年を思うと長くても、30年前のことを振り返るとあっという間だったという体験をした。

年末にたまたま高校のラグビー部の同期と飲む機会があり、当時はグラウンド以外であまり付き合いのなかった奴と話が弾んだ。
高校を卒業して約30年、同期の結婚式で会ったのを最後に連絡が途絶えて約20年。意外と言っては失礼かもしれないが、彼はよく覚えていた。特にラグビー以外のどうでもいいことを。風呂場でのハプニング、電車内で見た美しい女性のような男、腕相撲NO.1は誰か。多感な時期でもあるだけに記憶も強く、深いのかと思ったが、彼は毎年留年すれすれで進学していた。記憶力と勉強の成績は比例しないようだ。

彼が一番恐れていたのは試合に負けることでもレギュラーから外されることでもなく、あるコーチにボコボコにされることだったという。通称「赤鬼」。夏は日に焼けて、冬は赤いウィンドブレーカーを着ていることから、学生の間では「赤鬼」と呼ばれていた。鉄拳制裁が通用していた時代の話だ。ちなみにその「赤鬼」は今、誰もが知る有名企業の幹部である。

 
 
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高校のラグビーで学んだもの

育ちも違えば価値観も定まらない高校生が、特に春や夏の合宿では朝から晩まで、部屋も食事も風呂も同じ中で過ごす。慣れない環境にストレスも人一倍だったと思うが、そのストレスを超えて家族のようにならなければ強いチーム、いいチームは出来ない。
だから、その時代に培ったものはラグビーの技術や体力、精神力もあるが、今考えると「社会性」が大きかったような気がする。自分の「我」がどこまで許されるかの境界線、他者とうまくやる方法、といってもいい。

目指すべきチーム像や自分の役割などを日々の練習や監督・コーチとのやり取り、上級生や下級生との関係の中から学んだのではないだろうか。もちろんプレーに限らず、日常生活の所作や言動も含まれる。

日本代表のリーチ主将は、これまでのラグビー生活の中で高校時代の「根性練」が一番キツかったと言っていたが、言葉や習慣にも慣れていない外国の高校生にしてみれば、日本の練習はさぞかし辛かっただろうと思う。ある程度「大人扱い」される大学生と違い、高校生は基礎を中心に「叩き込む」練習が中心だからだ。まさに「生き抜く」という言葉があてはまるくらい、夏合宿は厳しい日々だったことを覚えている。

 
 

寛容な“帰れる家”

その一方、自分の周囲の人間関係で言えば、当時は大らかだった。同期会の幹事を務めた奴は、単純に色が黒いというだけで当時の読売ジャイアンツの抑えの切り札だった「サンチェ」というあだ名がついた。非常にシンプル、かつ今であれば微妙なあだ名だが、彼自身も気に入っているようで、その呼び名はずっと定着している。

ちなみに大学時代も見た目で付いたあだ名が多かった。「おいちゃん」「ばあちゃん」もいたし、チンピラのようだから「チンピ」、インド人のようだから「アッサム」、同姓が2人いる場合は「かっこいい〇〇とかっこ悪い〇〇」といった具合だ。放送禁止用語があだ名になり、NHKで中継する試合にそいつが出たらヤバイ、という話もあった。「そんな呼び方はやめてくれ」などと言う奴もいなかった。言えば余計に言われることをわかっていたのだろう。もとい、それくらい互いの親しみと信頼、寛容さがあった。

当然、今も同期が会う際にはあだ名で呼び合う。全てを飛び越えて当時に戻れるというのは、その枠組みの「家」があるようなものだと思う。

会わない期間がいくら長くても、ラグビーで得た経験が濃密で全員に通じるから、いつ話しても空気が変わらないし、すぐにわかりあえる。帰る家があるというのはありがたいことだ。

ラグビーがもたらす「心の支え」

名将・大西鉄之祐氏
名将・大西鉄之祐氏

冒頭の同期が唯一ラグビーに関して語ったのは、自分のタックルが名将・大西鉄之祐氏を泣かせたという話だった。大西氏をして「これがタックルや!」と涙ながらに言わせたらしいが、彼は脳震盪をおこして試合の記憶がなく、後日誰かから聞いた伝聞で知った。彼も含めた出席者は誰も覚えていない。つまり、その素晴らしいタックルを証明するものは何もない。

確かに大西氏は涙もろく、子供のような純粋さを持つ方だったので十分ありうる話だが、彼がその話を今まで忘れずにいたこと、また大西氏が30年前の高校生に強烈な印象を残した、その存在の大きさに感慨を覚えた。

今年も花園で高校ラグビーの熱い戦いが繰り広げられた。花園に届かなかった高校も含めて、数々の感動やドラマが全国で生まれたはずだ。一人でも多くのラガーマンの胸に、そんな心の支えが宿ることを願ってやまない。

 
 

(フジテレビ政治部デスク・山崎文博)

山崎文博
山崎文博

FNN北京支局長 1993年フジテレビジョン入社。95年から報道局社会部司法クラブ・運輸省クラブ、97年から政治部官邸クラブ・平河クラブを経て、2008年から北京支局。2013年帰国して政治部外務省クラブ、政治部デスクを担当。2021年1月より二度目の北京支局。入社から28年、記者一筋。小学3年時からラグビーを始め、今もラグビーをこよなく愛し、ラグビー談義になるとしばしば我を忘れることも。