東京から東北新幹線で新花巻まで2時間半。そこから在来線に乗り継いで2時間。
肌を刺すような寒さに迎えられて釜石駅を降りるとその正面、新日鉄の工場に書かれた歓迎の言葉が目に入る。添えてあるのは釜石市の花「はまゆり」だ。

かつての高度成長時代、この東北の田舎町から来た、武骨で泥臭いラガーマンが都会のチームをなぎ倒し、7年連続(1979年~85年)の日本一を成し遂げた。
新日鉄釜石。「北の鉄人」と呼ばれた面々だ。

都会を打ち負かす“たたき上げ”集団

真紅のジャージの釜石メンバー 左は松尾雄治氏

実はこのチーム、大学出身者は数えるほど。ほとんどが地元東北の高校を卒業し、凍てつく大地で鍛えに鍛えられ、無敵の全盛期を迎えた。当時の真紅のジャージは溶鉱炉の炎をイメージしたともいわれている。
毎年1月15日に行われていたかつての日本選手権は、社会人と大学の優勝チーム同士の一騎打ちだったが、学生最強との評価もあった平尾誠二氏率いる同志社も、ジャパンクラスのFWと言われた明治も、釜石はことごとく跳ね返した。跳ね返したというよりも、その深い懐に包み込むように退けた。文字通り、大人が子供を相手にするような「余裕」が感じられた。
満員の国立競技場には釜石のトレードマークでもある無数の大漁旗がはためき、女性の晴れ着姿と並んで、正月の風物詩にもなっていた。

国立競技場に多くの大漁旗が舞った
当時の試合結果を伝える紙面

釜石がもたらしたのは強さだけではなかった。地方出身者が居並ぶチームが都会のエリートを打ち負かす様に、人々は「たたき上げの逞しさ」を見た。普段は製鉄所で働くサラリーマンとしての姿は、ラグビーの雑誌にもたびたび掲載された。
堅固なスクラムとボールを展開するスタイルも人気があった。人工皮革ではない、普通の皮で出来た当時のボールは滑りやすく、それだけにボールをつなぐ技術が要された時代だ。V7達成時の社会人大会決勝・対神戸製鋼戦で見せた、延べ13人が繋いだトライは圧巻で、ため息が出るほどに美しいトライであった。

時代の変化に揺れて

この栄光から30年余り。ラグビーにはプロ化の波が押し寄せ、また時代の変化とともに企業とラグビーの関係も様変わりした。
現在、新日鉄釜石は「釜石シーウェイブス」というクラブチームに変わり、国内最高峰のトップリーグを目指して精進を続けている。
先日、秩父宮ラグビー場で行われたシーウェイブスの試合は、トップリーグや大学の注目カードと違って当日券の販売があり、全席自由という「お得な」チケットだった。
釜石サポーターが圧倒的に多かったが、その応援はもっぱら自発的、個人的なもので、お世辞にも洗練されたものとは言い難い。でもその素朴さがいい。少なくとも私にはそう感じられた。

釜石シーウェイブスのポスターより

現実に目を向ければ、海外選手も含めた戦力獲得やチームの強化は簡単ではない。クラブチームの運営でトップリーグと伍していくのは至難の業だ。それでも釜石は地元の支えと、ファンらの深い愛情を胸に、前進を続けていくのだろう。
総体としてのラグビー強化の方向は決して間違っていないが、時に郷愁的だと言われようと、そういうチームの活躍を願う人は決して少なくないはずだ。
それは、敗戦という結果でも温かな拍手が送られる、その光景だけで十分にわかった。

東北の強さとしぶとさ

学生時代、一度だけ釜石と対戦したことがある。高橋善幸さん。岩手が生んだ宰相・鈴木善幸氏と同じ名前の方にタックルしたが、岩のように固かった。釜石であれば「鉄のように」と言うべきか。試合展開もスコアも覚えていないが、あの衝撃だけは忘れられない。

時代の流れにも、震災という出来事にも耐えて、黙々と日々を送る釜石の人々にとって、シーウェイブスのラグビーが希望のひとつであることは間違いない。
素朴で温かいサポーターの「かーまーいし!」という声援は、昭和の懐かしさが残る、耳に心地いい響きだ。

(フジテレビ政治部デスク・山崎文博)