中国語には「あるのかないのか」「YESかNOか」という質問の仕方がある。選択疑問文というが、意思表示をはっきりする中国的な表現だ。中国人の知り合いに聞くと、逆に日本語は間接的な表現が多く、言葉もそのままの意味にならない時もあるから難しいという。日本は曖昧を好む「忖度」の社会であり、日本語はそれに対応できる、複雑な言語だと言えるだろう。
この「忖度」は、本来は相手の気持ちを推し量る大事な能力だ。忖度できなければ「察しが悪い」「勘が鈍い」などと批判されることもある。「〇〇的な」「〇〇みたいな」という表現が聞かれるのも、断定を避けることで相手への印象を柔らかくする効果があるからだろう。

先日、とあるバーで「ビール的なものを下さい」と注文していた人がいた。果たして出てきたのは「ビール的なもの」ではなくビール。その人は何も言わず美味しそうに飲んでいたのだが、普段の人間関係に相当気を遣っているのだろうと想像した。
昨今何かと話題になる「働き方改革」は、そうした日本社会のあり方に影響する可能性もあるのではないか。

仕事の境界線と人間関係

ポイントは「仕事か否か」の感覚により敏感になることだ。
「ちょっと一杯行くか?」であれば軽い誘いだろうが、「付き合ってくれ」だとだいぶ指示の感覚が強くなる。「来い」だと命令だ。酒の誘い同様、コミュニケーションに気を遣う日本で「仕事か否か」の線引きにより敏感になれば、会話はより腫れものにさわるようになってしまうのではないだろうか。

「仕事と言えなくもないんだけど、それってあれでしょ?だったらよくない?みたいな」
二重否定や「あれ」「これ」などの指示代名詞が付けば、さらに表現は曖昧になり、意味もほとんど不明だ。

ちなみに「働き方改革」と同様に問題となっているセクハラ・パワハラは、同じ事象でもセクハラ・パワハラになると考える割合は部下よりも管理職の方が高いという。上司の方がより敏感というわけだ。
これに従えば上司は部下に気軽に接していいことになるが、「以心伝心」が通用せず「それは業務ですか?」と部下に冷静に詰め寄られた際、困ってしまう上司は多いような気がする。

最近、会社のファックスやコピーが不調な時に手際よく直す若手がいて、私を含めた数人の上司は機械の調子が悪くなるたび「でんきや~」と彼を呼ぶ。彼は「はいはい~、電気屋で~す」と言って不調を直す。彼は実際電気屋ではないので「私は電気屋ではありません」と言われれば会話はジ・エンド。私は部下との接し方について、指導や叱責を受けることになるだろう
それでも彼が上司の軽口を受け止め、やりとりを楽しんでもらえるのは嬉しいし、有り難い。「働き方」も「ハラスメント」もTPOで変わるので難しいのは同じだが、やっぱり基本はコミュニケーションなんだろう。

“当たり前”の難しさ

ではより敏感になるコミュニケーションの上で大事なことは何か。
以前、ある先輩から「上手に謝ることが大事だ」と言われたことがあるが、ありがたい働きや助けに心から礼を言う、間違えたときにしっかり謝るという、至極当たり前のことのような気がする。もちろん挨拶などもそれに含まれる 。

自省と自戒を込めた話でもあるが、人は年齢とともに頑固になり、融通が利かなくなる。間違いを認めたり、謝るのも億劫になる。「嫌だ、謝るのなんて嫌だ!」と自分のちっちゃなプライドが叫ぶ。だから謝らないし謝れない。実っても頭を垂れるどころか、背筋がシャキーンとなる人も多い、という気がしないでもない、みたいな。
相手に対する「礼」を尽くすことで普段から強い信頼を築ければ、曖昧な会話をクリアにしなければならない時にも役立つのではないか。

私たちに出来ること

ただ、いろいろ考えても結論から言えば「働き方改革」の現実は厳しいのだろう。礼儀や愛情、誠意があっても人には好き嫌いがあるし、それらが必ず相手に通じるとも限らない。全てに当てはまる解決策は容易には見つからないだろう。
だからしょうがない。受け入れるしかない。何故ってそういう法律があるから。そして日本は法治国家だから。

同じアジアでも、巷間言われるのは中国や北朝鮮は“人治国家”、韓国は“情治国家”。どれがいいかは個々の判断に委ねられる。
では本当に何も出来ないのか。その根源を考えればどうだろう。
つまり誰がこの法案を作り、誰が法律にしたのかだ。
安倍内閣が閣議で法案を決定し、国会で自民・公明の与党が賛成して法律にした。
この法律を喜ぶ人も、また困ってしまった人も、選挙の際にはこれを判断材料のひとつにして一票を投じることが出来る。何故って日本は法治国家で、そういう法律があるから。
こうした身近な問題から、政治への関心が高まることは歓迎すべきことだ。

(フジテレビ政治部デスク・山崎文博)

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