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2019年12月。宮城・仙台市内に岩手、宮城、福島で東日本大震災を経験した若者が集い、「若者トーク」を行った。
震災当時、小学生、中学生、そして高校生だった世代。それぞれが伝承活動などに取り組んでいる。
震災の記憶をどう伝えていくか。自分の取り組みを発表したり、語り合った。

「若者トーク」は、宮城・石巻市で震災伝承活動に取り組む「3.11メモリアルネットワーク」が主催し、2018年3月から始めて、今回が8回目。
トークは2部制で、1部では7組10人が活動内容を紹介し、2部はパネルディスカッション形式で話し合った。

防災を身近に、楽しく学ぼう【武山ひかるさん】

武山ひかるさん 震災当時 東松島市立大曲小学校4年生 「TSUNAGU Teeneighter tourguide of東松島」(TTT)で語り部活動に取り組む
武山ひかるさん 震災当時 東松島市立大曲小学校4年生 「TSUNAGU Teeneighter tourguide of東松島」(TTT)で語り部活動に取り組む

武山 ひかるさん:
震災から学んだ教訓、話だけでは伝わらないことを「モノ」にして伝えたいと思っています。
私は絵本にして伝えたいと思って製作しています。絵本では、震災で両親と大切な家族を亡くした友達の経験と、私の関わりをまとめました。特に小学生以下の子達に読んでもらいたいと思って作っています。
昨日、研修で宮城に来ていた福岡の高校の生徒さんにお話をさせていただきました。活動する時は「1」対「大勢」で話すのではなく、話し合いに参加してもらったり、ゲームをしてもらう事に重点を置いています。

話を聞くだけだと眠くなっちゃうので、ゲームをしながら盛り上がろうと。
ずっと重い話を聞いていても、つらい経験だけが残ってしまいます。それは悲しいので、出来れば私の経験を聞いて、何かに生かしていただきたいと思って、皆とゲームをします。その感覚でいいので、楽しく防災を学んでいただきたいです

私は震災後、親戚やお母さんが亡くなった友達、親が亡くなったことでいじめられる友達とも一緒にいました。友達を亡くしたり、色んな経験をしました。
それを話すことで、誰かに伝わってほしいという部分と、自分と同じような経験をしてほしくないという部分があり、語り部として活動を始めました。
今は、どれだけ防災を身近に感じてもらえるか、災害を考えるきっかけにしてもらうか、を考えて絵本にしようと思っています。
私たちの話が皆さんの何かの役に立ったらいいなと思います

大きな津波が来た時は、こうしてほしい【佐々木結菜さん・藤社彩乃さん】

(左)藤社彩乃さん・(右)佐々木結菜さん 岩手県大槌町出身・震災当時2人とも小学校2年生
(左)藤社彩乃さん・(右)佐々木結菜さん 岩手県大槌町出身・震災当時2人とも小学校2年生

佐々木結菜さん・藤社彩乃さん:
東日本大震災を紙芝居で伝承しようと思い、作成しました。この内容は、私の体験を元に作成しました。
震災当時のことや津波の恐ろしさなど入れたことで、津波を知らない子ども達にたくさん読んで、今度また大きな地震が来た時の行動を学んでほしくて作成しました

(紙芝居より一部抜粋)
みなさんは、地震が起きたら高台にすぐ逃げて下さい。家族と事前にどこに逃げるか、避難場所を決めておく事も大切です

震災当時は水道が止まり、トイレの水が流れなくなったり、お風呂に入れなかったり。当たり前の事が当たり前でなくなりました。家族を亡くした人もたくさんいます。日々の生活や、家族みんなで当たり前のようにいられる事に感謝しながら生きて下さい

この紙芝居は、地域の方や他校との交流で発表してきました。もっと県内外の人達に披露したいと考えています

武山ひかるさん:
この絵は皆さんで描かれたのですか?

佐々木結菜さん:
構成は私が考えたのですが、もう1人、防災紙芝居を一緒に作った子がいて、その子が絵を描きました

武山ひかるさん:
すごく絵が上手なのでびっくりしました。私も絵本を作っているので、すごいと思いました。

東京と石巻の小学4年生の経験を比較して【渡辺雄大さん・武井友佑さん】

(左)武井友佑さん;東京都出身・震災当時小学4年生 地域おこし協力隊として宮城・石巻市で働く (右)渡辺雄大さん;大学1年生 宮城・石巻市出身 震災当時渡波小4年生
(左)武井友佑さん;東京都出身・震災当時小学4年生 地域おこし協力隊として宮城・石巻市で働く (右)渡辺雄大さん;大学1年生 宮城・石巻市出身 震災当時渡波小4年生

武井さんが、東京から中高生を石巻市など被災地に派遣し、震災について学ぶ団体に所属していて、高校1年の時に来県。渡辺さんと出会った。
2人で協力し、語り部活動に取り組んでいる。

武井友佑さん:
東京の小学生と石巻の小学生。同級生ですが、その時間帯、どういう行動の違いがあったかを比較しながら聞いてください。

3.11の時は小学校4年生の終わり、6時間目の時間でした。お遊戯会で、腕相撲大会をしていました。
その時に地震、1度目の地震が起きて、すぐ机に潜って最初は教室待機していました。先生も職員室に行ったり、連絡を取ったりしていました。
メモ用紙が配られ、「地震を経験をしてどう感じたか」をメモに残してと言われました。メモ用紙に当時の様子を書きました。その時、東京にもう一度余震、大きな揺れが来ました。すぐ各自で家に帰るよう学校から指示され、みんなバラバラで帰りました。

親は共働きでした。家に帰ると誰もいませんでした。集合住宅ですが、1階に、2階や3階に住む方が集まっていました。「家の人、親はいるの?」って声をかけてくれた方がいて、僕は「共働きなのでいないです」と言いました。
すると2階に住む方が「うちに避難していなさい」と言ってくれて、僕はその方の家に行きました。その時に「2階にいます」と書いたメモを自宅のドアに挟み、2階に避難しました。

母はそのころ、職場から車で帰っていました。途中、僕の同級生2人に会ったそうです。その子たちは防災頭巾をかぶって自転車に乗っていたそうです。
母が「どこ行くの? 防災頭巾かぶって」と聞くと、同級生2人は「遊びに行く」と言ったそうです。

僕が津波のことを知ったのも、母が迎えに来てくれて自宅に戻り、テレビをつけて初めて知りました。それまで津波のことを知りませんでした。震源から遠いところで、当時の僕達はそういう行動をしていました。ここからは、石巻の小学4年生がどういう経験をしたか、話してもらいます。

渡辺雄大さん:
午後2時46分、緊急地震速報より早く、大きな揺れが襲いかかりました。校庭を見ると信じられないような亀裂が走っていました。先生方は体育館へ避難し、そこで待機することを指示しました。児童の保護者が体育館の入口に来て、僕も母と合流できました。

校庭の外に出ると、道路まで亀裂が続き、避難する車の列が延々続いていました。僕は母や祖母と、車で陸橋の前の空き地に移動し、親戚と連絡を取ろうとしていました。
家族は、30年以上前の宮城県沖地震でも津波は来なかったから、「津波なんて来ないだろう」と思っていたのかもしれません。かなりの時間、携帯電話で連絡を取ろうとしていました。
すると、水が信じられない勢いで襲いかかって来ました。地面は津波に覆われて全く見えず、マンホールからは物凄い量の水があふれていました。
恐怖のあまり、その場から動けず、泣き叫びました。「怖い、怖いよう!」自分に命の危機が迫っているのに、動けませんでした。

その時、知らない男の人が僕に近寄り、「大丈夫か?」と声をかけて僕を背負いました。母と祖母も誘導し、津波をかぶる心配のない陸橋まで連れて行ってくれたのです。

僕は命をつないでもらいました。あのまま誰も助けに来なくて、僕がずっと動けないままだったら、母と祖母を巻き込んでいたかもしれません。

陸橋に上がったころ、雪が降り始めました。僕は寒さを凌ぐため、靴下を手袋代りにしてはめました。家が津波に飲み込まれて流されています。津波に浮かぶ車の上には人がいます。必死に助けを求めています。僕は、助けられませんでした。その夜は車中で過ごしました。普段の布団で夜を迎えられない不安で泣きました。

このような3.11を、僕たち2人は過ごしました。
僕は、目の前の誰かに悲しんで欲しくないと言う思いで語り部をしています。僕は家族を亡くしていませんが、すごく仲良くしてくれた友達を亡くしたり、悲しむご両親の姿をたくさん見てきました。ああいう光景を二度と見たくありません。

武井友佑さん:
雄大は石巻でこういう経験をして、同じ時刻に僕は親の迎えを待っていて。行動も出来事も大きく違いました。
どんなに震源地が遠くても、次に何かがあるかもしれないという意識を持ってほしいと思います。
仕事で親がいない時間帯に災害が起きて、建物の外に出る子もいると思います。そういう子に「どこに行くの?」とか、地域で声がけをしていただければいいなと思います。

もっと話し合っていい 福島のこと【清水葉月さん】

清水葉月さん 福島県浪江町出身・震災当時高校2年生 現在 宮城・石巻市で働く
清水葉月さん 福島県浪江町出身・震災当時高校2年生 現在 宮城・石巻市で働く

清水葉月さん:
当時高校生で、地震と原発事故を経験しました。
福島の原発事故があったのは浪江町の隣。双葉町・大熊町のちょうど間にありまして、なので直線距離的に10km圏内。わたしの自宅から約7km。けっこう近い地域です。
わたしは今、石巻で働いていますが、石巻とはまた違った感じで。発電所はいっぱいあって、第1電力・第2電力以外に、火力発電所も沿岸部にあったりします。

当時、高校2年生で、浪江町から双葉・大熊をへて、常磐線で富岡町の高校に通っていました。
地元では地震と津波の話はほとんど聞いた事がなくて、自分達が地震にあうなんて思っていませんでした。
原子力発電所の事はほとんど意識していません。元々、町民に開かれていました。福島第1原発は見学もできて、世界一安全ですって説明されていました。わたしたちは、それを何も疑いもせずに聞いていました。

当日、地震あったとき、富岡町の高校にいました。震度6強の揺れはすごくて、一斉に携帯鳴って、長く続く揺れに耐えていました。わたしは常磐線で通っていましたが、津波で富岡駅がごっそり土台から流され、帰れないってことになって。そのまま学校が避難所になりました。
近くの町から保護者が迎えに来たので、わたしは当日に浪江町の自宅に戻りました。

3月11日の地震があった時間は、皆さん覚えていると思いますが、12日の3時36分って耳慣れない時間だと思います。これは、福島の第1原子力発電所の1号機が水素爆発した時間です。
その時わたし、家にいて。避難所はすごく人がいっぱいで、ここにいるよりも自宅にいたほうがいいと思っていました。

自宅は海に近くなかったので、みんなでここで過ごしていようと話している時でした。わたしは、たまたま窓をあけた時、ゴオーってすごい地鳴りがしました。地面がちょっと浮かび上がる感じで、土がパラパラと落ちるような音がその後にしました。

あれ? おかしいと思って。浮かび上がるような感じだったので。何が起こった? と思って、わたしの家の近くに橋があるのですが、それが落ちたのかな? と思いました。それを見に行こうと、わたし1人で橋の方まで走って行きました。橋は落ちていませんでした。でも今の何だろう? と思いました。

そこに車が1台やってきて、町役場の父の同僚が乗っていたのですが、私達に一言、「今、原子力発電所が爆発した。逃げなさい」と言いました。
すごくびっくりしました。原発を全然意識した事ないし、まさか爆発すると思っていなかったのです。ともかく逃げなきゃいけないんだと思って、家にいたのは私と母と妹。3人で逃げようとなって。車に必要な布団や、水、食料を積み込んで。まさかそのまま、帰って来るのが1年後になると思わず、ひたすら車で山の避難所に走り始めました。で、転々としました。

この日は行き先に迷って、1日車中泊をしました。
母の実家が千葉県だったので、そちらに行く事にしました。道中、燃料や食料を分けていただききながら避難しました。高速道路は緊急車両のみが通っていて、一般道を通らなければなりませんでした。迷ったため、十数時間もかかりました。

千葉県に入り、3月13日に初めてテレビをつけて、地震があったことも、原発事故があったことも知りました。その渦中にいた時は何もわからなかったのに。

わたしは高校3年の1年間だけ千葉県の高校へ転校しました。そこで客観的に福島県を見ました。
わたしの友達はまだ避難所にいる。親戚の家を転々している。そういう状況を携帯電話で聞きながら「なんでわたしはここにいるのだろう」っていう気持ちをおさえられずにいました。
何故、わたし達にそういう事があって、東京の人たちは無事なのだろう? とか、いろいろ考えてしまいました。
特に福島県のことは、周りの友達も大人も、誰も気を使って聞かないのです。その中でわたしは、「何で逆に聞かないのだろう?」と。「すごく日本の中で大きな出来事だと思ったのに、何故みんな聞いてくれないのだろう?」と、すごくモヤモヤして、周りに対して心を開けない時期がありました。

清水葉月さん:
最後に1枚写真を紹介します。ひとつの地域の道です。この道、普通の道に見えますが、何が起こっているかわかりますか?
こちら側に、実はバリケードがあります。これは帰宅困難区域に指定された地域の家の前に作られたバリケードです。なので、ここの家の方は普通には入れません。どうしても帰りたい場合は許可証を取ったりして、日常的には帰れません。

こちら側はそのバリケードがありません。ここの方は既に帰っています。この細い道を挟んで何が違うんですかね。
これは国が指定した地域ですが、こういう状況が今も続いています。こういう未来と言うか、こういう状況を残してしまっている事は考えないといけない。もっとみんなで未来をどうしたいか? 考えなければいけないのではないかと思います。

――ー東日本大震災の発生から、まもなく9年がたとうとしている。
幼いころのショッキングな体験を、自分の言葉にして伝えようとする若者達。
「命が助かる幸せな防災」を志す。

(仙台放送)

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