85年前のベルリンオリンピックに出場し、その後、太平洋戦争で戦死した八代市出身の陸上競技選手をご存じでしょうか?

戦没オリンピアン・谷口睦生 選手の生涯を、貴重な資料とともに振り返ります。

これは、1936年ベルリンオリンピックを観戦した日本人が撮影した、歴史的にも貴重なフィルム映像です。

陸上競技や水泳など日本代表選手の活躍の様子が、観客目線で記録されています。

このベルリンオリンピックの陸上競技に出場したのが、八代市鏡町出身の谷口睦生 選手です。

谷口選手の足の速さは中学時代から評判で、各大会で記録保持者となり、関西大学在学中に男子200メートルの日本代表選手としてオリンピックに出場、2次予選まで進みました。

*八代市鏡総合グラウンドには、谷口選手の栄誉を称え銅像が建立

【八代市陸上競技協会 藤本 哲治 会長】

「とにかく速かったと。誰でもそう言っているから、それだけのイメージしかない。(谷口選手を)知っている人が、高齢化や亡くなったりしていて、当時の状況とかを確認できないのが残念ですね」

そんな中、谷口選手が地元で走る姿を見たことがあるという人が…。

【八代市鏡町在住 緒方 敬一 さん】

「スラッとして、スポーツマンタイプっていうかな。すいすい追い抜いて、一周」

ダントツ早かった?

「速かった、速かったですね。走るスタイルはキレイっていうかな~」

地元の期待を背負い世界で活躍した谷口選手。

しかしその後、日中戦争が勃発。

太平洋戦争へと続き戦況が悪化する中で、八幡製鉄所で働いていた谷口選手にも召集がかかり、出征することになりました。

谷口選手の生家に住んでいる、姪の谷口経子さん(89歳)は出征の日のことを覚えていました。

【谷口選手の姪・ 谷口 経子さん】

「きょうは叔父さんが兵隊に行きなはるけん、もう会われるかどうか分からんけん、いんにゃく神社だけん、来てはいよって。軍刀をこしらえて、ここから持って行った。私の父が、(軍刀を)握って行くより、腰に下げていくたいと言った。その時に、かっこよか~と。駅まで見送りにと言われたけど、学校の途中だったから行かなくて。それが(叔父さんを見た)最後だった」

谷口選手の部隊は中国から南方に転戦。

1943年10月、現在のパプアニューギニア領ブーゲンビル島の南、ソロモン諸島コロンバンガラ島沖の海戦で、乗っていた船が直撃され戦死しました。

*谷口 睦生 享年30 1943年10月2日 戦死

関西大学でともに陸上競技部に所属し、一緒にベルリンオリンピックに出場した山鹿市出身の戸上 研之 選手(走り幅跳び)は、のちに手記で谷口選手が戦死する前日一緒にいたことを記しています。

その日2人は偶然、コロンバンガラ島で再会し、大学時代のニックネームで呼びあいながらオリンピックや故郷にいる母親の話などをしました。

そして、もう一度グラウンドを走りたい、どうしても生きて帰りたいと戸上選手に打ち明けていたそうです。

*谷口選手が戦場で背負っていたリュックの底には、スパイクが入っていたという

オリンピックに出場し戦死した戦没オリンピアンは、谷口 睦生選手を含め全国で38人。

彼らの願いは『平和な世界でスポーツがしたい』ただそれだけだったはずです。