東日本大震災からまもなく10年。

震災前は飲食店の女将、震災後はホテルの支配人を務めた陸前高田市の女性は、今、被災地の「語り部」としての道を歩んでいる。

人首ますよ さん

「大きい地震が起こるかもしれない。(2月13日)土曜日よりも、もっと大きい地震が起こるかもしれない。一人だったら逃げられますか」

2月13日夜、福島と宮城で震度6強を観測した地震の3日後、陸前高田市の津波伝承館でガイドをする女性。人首ますよさん、57歳。

震災から10年、ますよさんがこの仕事に就くまでの日々は、様々な「苦労」と「涙」の連続だった。

ますよさんは、地元の漁師を束ねる網元である行雄さんの家に生まれ、海と共に育った。

震災前、高田松原の近くにあった飲食店の女将だったますよさん。

父がとる新鮮な魚介類を味わえる店として、何度もメディアに取り上げられる人気店だった。

しかし、開店から13年を祝った直後に東日本大震災が発生。

店は土台だけを残して跡形もなくなった。

人首ますよ さん(2011年)

「津波っていう…一瞬の津波で、全て私の人生だけでなく従業員やその家族、全て全てを変えた津波ですね」

父・行雄さんなど家族は無事だったが、家も船も被災し、人首家は網元を辞めざるを得なくなった。

ますよ さんの父・人首行雄 さん(2011年)

「道具全部流されてしまったから、(漁は)できないと思ってたが、少し船の機械を直して、孫が魚釣り好きだから一緒に魚釣りに行くかなと」

海への思いをあきらめきれない行雄さんだったが、体調を崩し介護施設に入った。

シングルマザーのますよさんは、長男と母と約3カ月間、避難所暮らしを余儀なくされる。

震災から2年後(2013年)。

ますよさんの姿は東京にあった。

飲食店での仕事ぶりを買われ、陸前高田市に再建するホテルの支配人を任されることが決まり、有名ホテルで一から研修することになった。

地元の復興のシンボルとなるホテルのオープンに向け、大きなプレッシャーがのしかかってきた。そのますよさんを支えたのは家族の存在だった。

二女 美月 さん(2013年)

「かなり落ち込んでるのはわかっていた」

長女 優妃 さん(2013年)

「大変だっていうのはわかるし、大変な時の(母の)目を見てるから」

東京で働いていた長女と短大生の二女は、震災直後から都内で街頭募金を行い、300万円以上を市に寄付した。

娘たちの行動力に、ますよさんは背中を押されたと話す。

人首ますよ さん(2013年)

「この子たちに私のこれからの生き方を見せていきたいなって」

ホテルには、復興に向けて力になりたいと地元の若者が入社。

人首ますよ さん

「『寝てない、お昼食べていない』というのは、お客さんには関係ない。感謝の気持ちをしっかり持てば、笑顔になれるし気遣いもできる、気配りもできる。何も難しくない」

支配人を務めるキャピタルホテル1000は、2013年に海を見下ろす高台にオープンした。

震災後、市内に初めてできたホテルの宴会場は盛況で、支配人として全国の人たちをもてなしてきた。

しかし、ますよさんはその3年後、苦渋の決断をする。支配人を辞めることにしたのだ。

人首ますよ さん

「父親が体調を崩してしまって介護が必要だった。父親に新しい家で生活してもらいたかった。この2つが大きな理由です。キャピタルホテルを退職した年の10月に父が亡くなりました」

父の介護のために、震災後務めてきた地元のホテルの支配人を辞めた、ますよさん。

父の死をきっかけに、自分がこれから「歩むべき道」を考えたと話す。

人首ますよ さん

「年齢も年齢なので、これから働ける時間をどの仕事を私はしたいのか、何をしたいのか、また考えたんです。その時にやはり震災に携わる仕事がしたいって」

陸前高田市に2020年オープンした「東日本大震災津波伝承館」。

人首ますよ さん

「東日本大震災津波で犠牲になった方は1万9,689名。地震ではないです、津波によって9割の方が亡くなりました。津波から大切な命を守るためには、早めの避難が大切です」

ますよさんが選んだのは「語り部」の仕事だった。

この日は地元の小友小学校の児童が見学。

「飲食店の女将」や「ホテルの支配人」が客に接するように、子どもたちに当時の様子を伝える。

そして「母親」が、子どもに大切なことを教えるように語りかける。

児童

「なぜ津波伝承館を海の近くに作ったのですか?」

人首 ますよ さん

「皆さんに東日本大震災の津波の事実、どんなことがあったのか、それからどう学ばなきゃいけないのか、それをみんなに知ってほしいところなんです。犠牲になった方に手を合わせる思いを寄せるために、海の近くに作りました」

児童

「ありがとうございます」

人首ますよ さん

「私の人生の中の支えは子供の存在が大きい。私自身が防災意識が低く危機感がなかったかもしれない。母親として子供たちに伝えられてきたか、自分の身を守ること、津波のこと、地震のこと。繰り返してほしくないっていう気持ちがどうしてもあった。命の大切さを伝えていかなきゃいけない、伝えていきたいって思った。この仕事に一生懸命に向き合って成し遂げるというか、続けていきたいなと本当に思っています」

あの日から間もなく10年。

激動の人生を歩んできたますよさんは、思いを未来につなぐためにこれからも震災を語り続ける。