東日本大震災で1人が行方不明となっている岩手県普代村。しかし、津波による住宅の浸水被害はなかった。

震災の影響を最小限にとどめた要因…それは「普代水門」。さらに「太田名部防潮堤」の存在。

震災当時 消防団分団長 太田和志さん

「水門のおかげで、この集落は民家が一軒も被害を受けないですんだので、建設に携わった人たちには本当に感謝しています。これ(太田名部防潮堤)がなかったら、おそらく100軒足らずの集落なんですけど、もしかすると半分ぐらいは津波に流されたかもしれないですね。水門の開閉は、今は自動になったんですけど、当時は手動でした。消防団の方が港周りを全部確認して手動で閉めたという感じです。この水門のおかげで集落の家屋の被害はなかったのですから、本当にありがたい存在だと思っています」

津波による大きな被害を免れた普代村。

しかし、太田名部防潮堤より海側、大田名部漁港で飲食店「魚定」を切り盛りしていた太田さんは津波で店舗を失った。

魚定 大将 太田定治さん

「津波の後は3日くらいは水門からこっち(海側)に来ないでくれと消防に言われて、上で見ていたんです。そしたらすごかったですね。3日くらい経って水門から出てもいいよと言われて、来たらもう何もなかったですね。ちょうどここから木があるところまで(旧店舗)でしたね」

津波で店舗を失った太田さんだが、1年後には同じ場所で営業再開に漕ぎ着ける。

その原動力となったのは、津波のあとに見つかったお店の顔…

魚定 大将 太田定治さん

「これです。この『魚定』って書いた看板が3日くらい経ってから、向こうに引っかかって(海に)浮いていたんです。それを拾って。涙が出てきましたね。子供みたいな感じでしたね。これ(看板が)あったからやる気も出てきたんです」

そしてもう一つ、太田さん思い出の品が残っていた。

魚定 大将 太田定治さん

「これ(包丁)が残っていたんです。店を始めるとき弟からもらった贈り物で、ずっと大事に使っていたんですけど、そんな意味もあって残っていたのが嬉しかったですね。(お店を)やってくれというメッセージでしたね」

震災の爪痕から復活の光を見出した太田さん。

この先も、防潮堤の前から普代の美味を届けていく。