1985年、8月12日 、JAL123便が 群馬県の御巣鷹の尾根に墜落した事故。
乗客・乗員520人の命が失われ、遺族は家族を探しに山を登った。
ある遺族はフジテレビの軽部真一アナと登山した事が忘れられないという。
軽部アナも遺族にかけてもらった言葉が強く心に残っていた。

10月5日、忘れないよ

娘2人を事故で亡くした山岡武志さん(82)
娘2人を事故で亡くした山岡武志さん(82)
この記事の画像(6枚)

山岡武志さん82歳。
34年前の事故で娘の知美さん(当時16)と妹の薫さん(当時14)を亡くした。
毎年のように慰霊登山を行っていた山岡さんだが、今年4月には大腸がんの手術を受け、目も見えにくくなった。
去年の登山で呟いた「登るのは最後」という言葉が現実になった。
今年は妻と長男に慰霊登山を託した。

山岡さんは墜落事故以外に、よく覚えている日があると教えてくれた。
「事故直後、がけみたいな所をよじ登った。軽部さんと沢を。10月5日、忘れないよ」

一緒に登ってくれてありがとう

御巣鷹山の尾根に墜落した日航機(1985年8月)
御巣鷹山の尾根に墜落した日航機(1985年8月)

「すごいところだと思った。あの山は。本当に秘境ですわ」
事故が起きた年の10月5日、山岡さんは、御巣鷹の尾根を目指すことを決めた。
険しい道のりだが、そこに、2人の娘がいる。

「娘に会いに行かなきゃ」山を登った妻・清子さん(1985年10月5日)
「娘に会いに行かなきゃ」山を登った妻・清子さん(1985年10月5日)
当時を振り返る妻・清子さん(8月12日)
当時を振り返る妻・清子さん(8月12日)

妻の清子さんも当時を振り返る。
「あの時は雨が多かったから必死になって行った。登らなきゃ行けない。会いに行かなきゃいけないと思って。どこから出てくるんじゃないかと思って。出てこなかったけどね」

山岡さんに偶然、軽部が現地で声をかけた。

軽部は、事故の起こった年にフジテレビに入社。
新入社員のアナウンサー。情報番組の取材で現地を何度か登っていた。
「何度か登っていて道のりが分かっていたし、ご遺族の助けになるかもしれないと思い、声をかけました。」

山岡さんに、同行を許可してもらい、一緒に登ることになった。
遺族にとっては、同行されるのは迷惑で、取材を続けていいものか迷ったという。
迷いながらも取材を続けた。その様子はテレビで放映された。

当時、新人だった軽部アナは迷いを抱えながら取材を続けた(1985年10月5日)
当時、新人だった軽部アナは迷いを抱えながら取材を続けた(1985年10月5日)

取材後、山岡さんから言葉をかけられた。
「一緒に登ってくれてありがとう」
軽部はその言葉を今も忘れていない。

アナウンサーとしての道しるべ

軽部が入社して34年。現在は若手社員らを指導する立場になった。
当時、山岡さんからかけられた言葉を研修では話して、事故の凄惨さと遺族の思いを伝えている。
「新入社員だった私に山岡さんがかけてくれた言葉は取材を続けるアナウンサーとしての道しるべになっています。」

山岡さんの息子・直樹さんには不思議な感情が芽生えたという。
「私は当時19歳。わずかな時間を一緒に過ごしただけだけど、同じ釜の飯を食ったというか、運命共同体のような気がしてね。他人のような気がしなくなったんです。
不思議なもので、いつも、軽部さんのことを応援しているんですよ。」

突然、家族を亡くした家族の悲しみや心境を取材者が全て理解するのは難しい。
しかし、遺族に真摯に向き合うことで、遺族の思いに一歩でも近づくことはできる。
同様の事故を決して起こさないよう、事故の風化を防ぐため、私たち、報道機関もあの事故を伝え続けなければならない。

(フジテレビ報道局社会部国交省担当 相澤航太)

相澤航太
相澤航太

フジテレビ報道局 「イット!」プロデューサー 元社会部記者