シリーズ東日本大震災から10年。今回は「復興の課題」がテーマです。仙台市太白区にあった仙台市内最大の仮設住宅の「自治会長」だった飯塚正広さんです。仮設住宅のリーダーとして住民の取りまとめに奔走してきた飯塚さんですが、10年が経とうとしている今、苦しい胸の内を話してくれました。

飯塚正広さん

「一言でいうと“スラム街”みたいな所だった」

飯塚正広さん、59歳。震災の後、暮らしていた仮設住宅を「まるでスラム街のようだった」と話します。飯塚さんが暮らしていたのは、太白区にあった「あすと長町仮設住宅」。最も多い時で220世帯、およそ450人が暮らしていた仙台市内最大の仮設住宅です。飯塚さんは岩沼市で被災し、妻と息子の3人でここにやってきました。

仮設住宅に集まったのは、同じ「被災者」と言っても、住んでいた場所も境遇も違う人たち。ごみ出しのルールや車の停め方など、トラブルが絶えませんでした。

飯塚正広さん

「まずは環境を何としなければと。それが最後まで私のパワーになっていたと思う」

「家族が安心して暮らせる場所にしたい」。飯塚さんは自ら仮設住宅の自治会長になりました。自治会長として、見回りや住民への声がけを率先して行い、住民同士の「つながり」を作ろうとイベントも企画しました。

しかし、責任感の強かった飯塚さんに「自治会長」という役割が重くのしかかっていました。

飯塚正広さん

「救急車が来たり、何か事件があったりすると、必ず私のところに情報が集まるようにした。リアルタイムに情報集約させることをずっと3年間・4年間やってきた。24時間、365日、私は必要だと思って自治会長の責務を果たしていたつもりなんですけど…」

トラブルがあるとすぐに駆けつけなくては。携帯電話は片時も手離せませんでした。さらに。

飯塚正広さん

「おととしになりますが、一緒にずっと仮設や災害公営住宅で暮らしてきた、一番私のよき理解者だと思っていた妻が亡くなった。自治会長として孤独死や自死を防げるものだと頑張ったつもりなんですが…」

長年連れ添った妻が急死。突然訪れた別れに、飯塚さんは体調を崩し、入退院を繰り返すようになりました。

飯塚正広さん

「今までやってきたことを、妻から全否定されちゃったのかなと。正直、今でもわからない部分もあって」

飯塚さんは、妻と暮らしていた災害公営住宅に住むのがつらくなり、今は娘の家に身を寄せています。

被災地のコミュニティの研究をする専門家は、「復興を引っ張ってきたコミュニティのリーダーが疲弊する例が、ここ数年増えてきた」と話します。

岩手大学復興・地域創生ユニット 船戸義和 特任助教

「東日本大震災の場合には入居と同時に高齢化の問題があって、高齢の意識の高い方がなんとか頑張ってやっている。それが3年4年続くことで疲弊してしまって、倒れている方々が多くいる状態。行政がしっかり本腰をいれて自治会と支援者と共同して、皆さんの意識をまず変えていかなければいけない」

震災からまもなく10年、県は、災害公営住宅に暮らす人たちの心の状態などを調べる健康調査を、今年3月で打ち切ることにしています。