2011年3月11日に発生した「東日本大震災」。当日、被災地にいた人たちの苦しみは計り知れないものがあるだろう。しかし、あの日、東北にいなかった「被災地出身者」もまた苦悩していたのだ。彼らを苛んでいたもの――それは、故郷にいる家族や友人に対し、「なにもできない」という思い。

震災当時、どこでなにをしていたのか。そして、どのように苦悩していたのか。東京に住む、被災地出身者の話を聞いた。

他の地域の被災者を悼むようになった

現在、広告代理店でコピーライター・CMプランナーとして活躍するTさん。岩手県出身の彼は、あの日、都内のオフィスでコピー制作に追われていた。震源地が東北であることを知ったのは、震災発生後すぐだったという。

「非常に大きな地震だったので、オフィスにあるテレビをつけて、地元が被災したことを知りました。ただ、実家は岩手の山の中にあるため、津波の心配はなかったんです。どちらかといえば、盛岡に住んでいる兄弟家族や宮城県の友人のことが心配になりました」

震災翌日には家族とも連絡がとれ、その後、新幹線が復旧したGWに帰省をした。実家自体は被害を免れていたが、海沿いである久慈市には津波の爪痕が残っており、被害の大きさを実感したそうだ。さらに、家を失ったことで車生活を余儀なくされている友人の姿も目の当たりにした。そこでTさんがとったのが、情報を伝えること。

「東京に住んでいる僕にできることは、とにかく情報を伝えること。こまめに連絡を取り続けたのを覚えています」

しかしTさんは、「自分のことで精一杯だった気もする」と後悔の色を滲ませる。

「震災の影響が仕事にも波及し、その対応に追われていました。家族への被害が少なかったことは幸いでしたが、やはり不安は大きかったと思うので、家族に対してはもう少し密に連絡をするべきだったとも思っています」

そして、その後悔が尾を引き、地元である東北との「心理的な距離」が開いてしまったという。被災地出身者ではあるものの、被災した当事者ではない。心境は複雑だ。

「震災当時、東北出身者ではない人たちがあまりにも他人事だったことが僕にとってはショッキングでした。なので、もし他の地域で災害が起きたときには、その地の被災者の方々に思いを巡らせるようにしようとは思っています。それが、最低限できることなのかな、と」

震災直後、「震災」を想起させるDVDのレンタルも自粛された
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震災の年に出産。はじめて母親の気持ちがわかった

宮城県名取市閖上(ゆりあげ)出身のFさんは、当時、妊娠初期のため自宅にいた。大きな揺れを感じテレビをつけると、地元が津波に飲み込まれてしまった報道を目にし、愕然としたという。急いで家族に連絡を取ろうとしたが、回線が混み合っていたため一切つながることはなかった。

「両親や兄弟が住んでいたので、無事かどうか気が気じゃなくて…。その後、災害伝言板経由で無事が確認できてホッとしました。ただ、実家は完全に流されてしまったんです」


家族が無事ならそれでいい。そう思いながら、当時所属していた会社を経由して、家族へ支援物資を送り続けた。そして、震災後はじめて地元を訪れたのは5月半ばの頃。

「実家の跡地を訪れたら、やはりなにも残っていなかった。生まれ育った家だったので、とてもショックでしたね。でも、私以上に母が呆然としていて。母は自宅で美容室を経営していたのですが、いろんな思い出が詰まっている場所を一気に失ってしまったことで生きがいをなくしたようでした。その姿を見るのが、とてもつらかったです」

その後、両親は妹夫婦と同居することになり、現在では新居で新しい生活をスタートさせているという。

「その年の11月に娘を出産しましたが、そうなってはじめて母親の気持ちが理解できるようになったんです。当時、私の母は誰よりもつらかったはずなのに、私を含めて子どもたちの心配ばかりしていた。それが親なんですよね。だから、あれ以来、両親の元へまめに帰るようになりました。孫の顔を見せてあげたいですしね。それと、人生はいつなにが起こるかわからないんだと思うようにもなりました。だから、後悔しないように生きなければいけない。娘にはそれを教えていこうと思っています」

都内でもティッシュや水などは品薄状態になった

ちょっとした地震でも震源地を確認するように

最後に話を聞いたIさんは、宮城県東松島市の出身。ここもまた、津波の被害が甚大だった地域だ。震災当時、仕事中だったIさんも、オフィスのテレビでその全容を知り急いで家族の安否を確認した。

なんとか電話がつながり無事が確認できたものの、すぐに回線が混み合い不通に。その後、一週間はまったく連絡が取れなかったという。無事を確認できたものの、次第に募る不安。その理由は、父親がある障がいを抱えていたからだ。

「父は日常生活において酸素ボンベを必要とする体だったんです。だから避難できたとしても、酸素ボンベがなくなってしまったらどうなってしまうのか…。そう思うと、まったく安心はできなかったです」

そこで痛感したのが、自分の無力さ。当時を振り返り、Iさんは涙ながらにこう話す。

「情報がなにも入ってこないし、だからといって帰る経路もない。自分にはなにもできないんだと、とても悲しくなりました。当時は会社までの電車もしばらく動いていなかったので、仕事は数日間お休みしたんです。でも、なにをしていたのか、正直記憶がないんですよね…」

前述の通り、一週間ほど経ってあらためて家族の無事を確認することができた。そして、Iさんもまた5月の連休を利用して帰省をした。そこで見たのが、地元の凄惨な様子。かろうじて実家は無事だったが、慣れ親しんだ土地の変わり果てた姿に、涙がこらえきれなかったという。

「家族があんな震災に巻き込まれるなんて想像もしていなかったので、今後平穏に暮らしてもらうことだけが願いです。ちょっとした地震が発生すると、地元が震源地なんじゃないかと敏感に反応してしまうようになりましたし、きっとあのできごとは心に根深く残り続けるんだと思います」

情報収集をしたり、支援物資を送り続けたり、3人はそれぞれのやり方で「できること」を行った。しかし、その根底にはやはり「なにもできなかった」という無力さが漂っている。その後悔にも似た思いが、いつの日か昇華されることを願ってやまない。


取材・文=五十嵐 大