涙を流しながら子供の手を握り…

「腹痛を理由に訪れた5歳児がいるんだけど、お母さんの様子がどうもおかしいのでちょっと来てくれる?」

小児救急病棟のソーシャルワーカーの仕事は、児童虐待のアセスメントや親御さんへのサポートが主なのだが、たまにこのような何が問題なのかわからないケースへのリクエストも来る。

とりあえず急いで病棟へ行ってみるも病室には誰の姿も見当たらず、私を含めたスタッフが一斉にあたりを探し始めた。

「ついさっきまで病室にいたからそう遠くまでは行っていないはず」という医師の予想通り、救急車用の入り口でお母さんとジョシュア(5歳男児・仮名)は肌寒い雨の中、傘もささずに佇んでいた。

お母さんは大きなグレーのパーカーのフードを深くかぶって微動だにせず、静かに涙を流しながらジョシュアの手をしっかり握っていた。

即座に私はメンタルヘルスの問題だなと感じた。

どのように対応したらよいのか考えを巡らし、お母さんの気持ちを荒げないよう、まずそっと寄り添った。そして、「濡れちゃうから入りましょう。何か今辛いことが起きているみたいだけど、大丈夫。我々も一緒にできる限りのことをやりますから、まずは中に入って話しましょう」と声をかけると、お母さんは静かに動き始めた。

タイミングよく、お母さんが先に電話で病院にいることを知らせたジョシュアのお父さんが病棟に現れたので、お父さんにジョシュアを任せる。

お父さんによると、お母さんは現在住むアパートからの退去命令がでており、かなりのストレスを抱えているとのこと。

私はお母さんを別の個室に連れていき、状況を聞き出すためにインタビューを始めた。インタビューといっても、あまり形式張ってはお母さんを怖がらせてしまうので、できる限りカジュアルに情報を聞き出す。 

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追い込まれたお母さんは幻聴が聞こえるように…

9歳、7歳、5歳の息子と住むお母さんは、ここ数年、大家の女性とのいざこざが絶えず、結果、Housing Court(住居問題を扱う法廷)から退去命令を出されてしまい、あと3日のうちに出ていかなければならないという状況に追い込まれていた。

お母さんはSection8 voucherと呼ばれる、住宅都市開発省が発行する低所得者向けの家賃補助を受けているのだが、このvoucherを引き受ける大家は簡単に見つからず、次なるアパートが見つかっていない状況。

つまり子供3人を抱えてホームレスになる寸前なのだという。

お父さんは子供の世話に積極的に関わっているというが、一緒には住んでいなかった。彼自身、アパートの一室を借りて生活しているので、4人を引き受ける状況にはないという。

お母さんはここ数日、あまりのストレスで全く眠れず、精神的に追い込まれていることを自覚していた。そして数日前から自分が「小児愛者」だと言う幻聴が聞こえはじめ、次第に自分が知らない間に子供達を傷つけているのではないかと心配になってきたのだという。

話を聞けば、お母さんには双極性障害(Bipolar Disorder)の診断がすでにあり、向精神剤を処方されていた。しかし、処方通りには飲んでおらず、どうしてもまばらになってしまっているとか。

今一番大事なことはお母さんが精神科医に診てもらい、精神の安定化を図ることだと話し、精神救急病棟へ行くことを勧めた。

子供たちのことを心配するお母さんに、お父さんと相談して子供達の安全は保証します、と話してから、私は病院内の精神救急病棟へとお母さんを連れていったのだ。

双極性障害(Bipolar Disorder)とは、うつ状態と躁状態を繰り返し、不定期な気分、エネルギー、活動量の変化をもたらす慢性疾患である。アメリカでは毎年約570万人(18歳以上の人口の約2.6%)が影響を受けており、発病の平均年齢は25歳と言われている。

罹患者は少なくとも1人は同様の疾患を抱えている家族がいる場合が多く、遺伝との関連性も示唆されている。その他、ストレスフルな人生での出来事が発病、もしくは発病後の再発に影響しているという研究結果も様々なところで発表されている。

遺伝的に発病しやすい人が、ストレスなどの環境的要因によって発病するのではないか、という説もある。

病院の記録によればお母さんには11年前、26歳で初めて精神科へ入院したのに始まり、その後、少なくとも3回は入院を繰り返しているのだという。 最後は3年前の同じ時期だった。

双極性障害に加え、日々のストレスを対処するためにマリファナ(大麻)も常用していることから、cannabis dependenceという診断があることもわかった。

今回、お母さんにはサイコシス(psychosis)と呼ばれる、現実と乖離した思考、感情が起きており、幻聴もその一つの症状である。今回は、ホームレス寸前の状態で、精神的に追い込まれたことと、処方薬を処方通りに飲んでいなかったことで、サイコシス(psychosis)を引き起こしてしまったのだと考えられた。

壮絶な過去

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そもそもお母さんには、「ストレスフルな人生での出来事」ばかりを繰り返してきたような壮絶な過去があった。

ともにアルコール中毒だった親元に生まれた彼女は、Fetal Alcohol Syndrome(胎児性アルコール症候群)を患い、Learning Disability(学習障害)を抱えていたため、学校では常に特別学級に入っていた。

10人兄弟の全員が里親制度に入ったり出たりを繰り返し、現時点では1人のお姉さんとしか連絡がとれておらず、他の兄弟の行方も安否も分からないのである。

里親制度に入っていた際には、里親からの虐待を経験し、大人になってからは恋人からのDVを受け、安定した生活からは程遠い人生を送ってきたのだ。

暴力的で支配的だった恋人とようやく別れ、いまの子供たちのお父さんと出会い、家族を築くに至るものの、貧困やストレスの生活からは解放されることはなく、のちに双極性障害を発病し、精神病棟に入退院を繰り返すことになるのだ。 

今回、精神救急病棟から精神病棟へと移送されたお母さんは、数日間はサイコシス(psychosis)の症状が続いていたものの、処方薬の継続的な投与により、徐々に安定してきた。

私は病院記録に登録された住所を元に大家さんを探し出し、電話で現在の状況を説明した。大家はこれまでのお母さんとの騒動や衛生状況の悪化について息を荒げて説明し、今の時点では何もできない、と一蹴した。

しかし、数時間後に電話をかけてきて、退去命令を1ヶ月間遅らせるように法廷に申し出たと言ってくれた。わずか1ヶ月の猶予しか得られなかったのだが、それでもお母さんの精神状態にもたらした影響は大きく、将来を見据えた考え方ができるようになり、少しずつ表情も明るくなってきた。 

2週間の入院を経て、お母さんの退院が決まった。退院後も精神科医への通院を義務付けられ、薬物療法の重要性が再三にわたり説明され、お母さんはお父さんに連れられて帰宅していった。

 病院の記録によれば大体3年周期で双極性障害が悪化して病院へやってくるお母さん。

おそらく生活環境はこれまでとさほど大きく変わることはなく、またストレスによってサイコシス(psychosis)を引き起こし、何かしらの形でまた我々の病院へ戻ってくるのだと思う。

お母さんの病状の陰に隠れがちな子供達だが、彼らへの影響もまた計り知れず、彼らの行く末を考えると心が痛むばかりだ。彼らもまた、遺伝の影響、貧困を含めたストレスなどの環境的要因により、精神障害を抱えることになるのだろうか…。

精神障害や貧困、薬物依存などはジェネレーションを超えて影響をもたらし続けることがわかっている。どのような形でその世代を超えた負の連鎖を断ち切れるのか。この日も私は答えが見つからないまま救急病棟を後にした。