東日本大震災から3月11日で15年。特集は震災の記憶を未来へ語り継ぐ女性です。女性は福島県浪江町出身で中学1年の時に被災。地元を離れ、避難生活を余儀なくされました。失われた青春、会えなくなった親友。震災で変わってしまった人生と経験を、語り部となり後世に伝えています。
■人生が一変した日「当時の光景が目に浮かぶ」
東京で夫と二人で暮らす高木舞さん(28)。
福島県浪江町出身で、今は都内で広告の仕事を手がけるフリーランスとして活動しています。
福島・浪江町出身・高木舞さん:
「最初は慣れないことも多かったけど、浪江の友人と集まる機会もすごく増えたので、東京に出てきて良かった」
15年前の3月11日。
中学1年生だった舞さんにとって人生が一変した日です。
高木舞さん:
「正直15年?という感じで、自分にとって、つい最近のことのように当時の光景が目に浮かぶし、地震の大きさだってすぐに思い出せちゃうぐらいのことだったので、正直15年と言われてもなんか納得できないというか」
■「家がつぶれて下敷きになるかも」
15年前の3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生。
国内観測史上最大規模の揺れでした。
その後、東北から関東の太平洋沿岸を大津波が襲い、福島第一原発事故が発生。
大量の放射性物質が大気中や海に放出されました。
このため浪江町や双葉町などは、町全域が避難指示の対象となり「全町避難」へ。
ピーク時は、福島県で約16万人が避難生活を余儀なくされました。
被災時、舞さんは中学1年で、自宅にいたと言います。
高木舞さん:
「下からドドドって大きく何かが来るような感覚で、玄関から離れた部屋にいたので、このまま玄関に行ったらもしかしたら家がつぶれて下敷きになるかもしれないと、それぐらいの大きさだったので、窓開けてすぐ外に出ました」
発生直後、母親と当時小学生だった弟と一緒に役場に避難。
浪江町では津波や家屋倒壊で151人が死亡、31人が行方不明となりました。
■「震災経験、乗り越えるのは無理」
翌日、原発事故を受け浪江町も「全町避難」の対象に。
舞さん一家は、福島市など避難先を転々と変え、最終的に、親族がいる仙台に避難しました。
高木舞さん:
「よく分からないまま、とりあえず私は当時の部活で使ってたエナメルバッグにジャージと筆記用具を入れて、すぐ戻ってこられると思っていたので、それぐらいの身軽な装いで車に乗り込んで」
一時的だと思っていた避難生活。
震災の影響が明るみになるにつれ、長期化の様相を呈し、舞さんも仙台の中学校へ転校することに。
慣れない環境―
友達のいない寂しさ―
高木舞さん:
「子どもながらに両親の前では泣いちゃだめだって思っていたのか、(登校時)母が玄関まで見送ってくれるんですけど、そこから学校に向かう間で泣きながら学校に行くとか。地震があったとしても原発(事故)さえなければ、被害は大きいけれど引っ越す必要も避難する必要もなかったので、そこはどうしても思っちゃうところ。原発さえなければ」
浪江町に戻ることはかなわないまま、仙台で高校卒業を迎え、その後は東京の大学に進学し、就職。
2023年に岡谷市出身の拓哉さんと結婚しました。
15年が経ち、生活は大きく変わりましたが、「あの日」の記憶は変わらないままです。
高木舞さん:
「気持ちはずっとあの頃のままあるので震災と向き合うか、正直、向き合うというよりは、受け入れながら生きていく。乗り越えるという言葉は私はあんまり好きじゃなくて、無理なんですよね。もう過去は変えられないし、なんとか受け入れてこれからも生きていく、が私の答え」
■夫と初めてめぐる「思い出の場所」
2026年2月、舞さんは「思い出の場所」を見てもらおうと、夫・拓哉さんと一緒に浪江町を訪ねました。
高木舞さん:
「すごくスカスカに見えるけど、当時はお店がびっしり連なっていて」
夫・拓哉さん:
「どこまで商店街だったの?」
高木舞さん:
「ここからあっちまで新町商店街」
やって来たのは町の中心部にある「新町商店街」。
震災前は舞さんの父の会社や、祖父母の家があった場所で、商店街を歩けば顔見知りばかり。地域の祭りの会場でもあり、友達と一緒に参加したことが忘れられないと言います。
高木舞さん:
「こんなに視界が開けている場所じゃないので、もうお店がビチビチにあったから。向こうに小さいスーパーもあって、おばあちゃんにお使い頼まれて、野菜買ってくるとか」
震災前、2万1000人以上が浪江町で暮らしていましたが、今はまだ1割程度しか戻ってきていません。商店街は、震災の影響でほとんどの店が移転や閉店してしまい、当時の面影はありません。
しかし、舞さんにとっては「ふるさとの象徴」です。
高木舞さん:
「(拓哉さんに)震災前の商店街の活気を知ってもらえたらよかった、田舎の良さというか」
震災前の「思い出の場所」を夫婦でめぐるのは、初めてのことでした。
■なにもない母校「原発事故さえなければ」
そして一番訪れたかった場所が―。
夫・拓哉さん:
「校舎はどこなの?」
高木舞さん:
「校舎はここに。なにもないね」
当時通っていた浪江中学校跡地です。
原発事故の影響で、2021年に閉校し、校舎も取り壊されてしまいました。
夫・拓哉さん:
「地震で倒壊したりしていないんでしょ?単純に人がいなくなったから?」
高木舞さん:
「人がいなくなったというか、原発(事故)で入れなくなったから(閉校になった)。原発(事故)がなかったら普通に通っていた」
高木舞さん:
「普通は校舎があって、私はあの何階の教室で授業を受けてという会話ができるかなと。そういうのも全然できないのは寂しいですね、悲しい。原発(事故)がなかったらっていうのは思いますね。震災だけだったら。この辺は津波があった場所ではないので」
夫・拓哉さん:
「15年たったから、今が節目だから思い出しているわけだけど、何年たっても忘れないようにしていく、勉強し直すことは必要」
■会えない親友「また学校でね」最後の会話
高木舞さん:
「入学式に撮ったんだよ」
この場所で撮った「忘れられない写真」があります。
高木舞さん:
「(その写真は?)浪江中学校の入学式の日に親友と一緒に撮った2ショットです。親友とは家が隣同士だったので、幼稚園年長からずっと一緒に過ごしてきたけど、小学校6年間は同じクラスになることはできなくて。(中学1年に同じクラスになれて)念願だったので、早く同じクラスになれたらいいねと言っていたので、やっとだと思ってうれしかった」
しかし、一緒に過ごす学校生活はわずか1年だけでした。
高木舞さん:
「その親友とは3月11日に一緒に役場まで避難をしていて、放課後の延長線上の会話というか、びっくりしたねなんて言ってて。私は弟と一緒に家に戻ることになるけど、親友はそのまま役場で母の帰りを待っていて、私帰るねって、また学校でね、気をつけてねって言ったのが、最後の会話」
舞さんは仙台に避難。親友はその後、群馬県に避難したという連絡が1度来たきりで、連絡がとれなくなってしまいました。
高木舞さん:
「彼女が今どこで何をしてるのかも分からないですし、成人式にもその子の姿はなくて。会いたいけど会えない。本音を言うと私が最近結婚したので結婚式にも来てほしかったとか、スピーチをしてほしかったという思いはあります」
■制服リメークで繋ぐ震災の記憶
浪江町での短い青春を幼なじみと過ごした思い出の制服。舞さんはある決断をしました。
高木舞さん:
「かわいいなと思います。気に入っていたので、セーラー服。私も3年間着たかった」
長野県千曲市のシャツメーカー「フレックスジャパン」が手がける「制服リメーク」に制服を出していたのです。
高木舞さん:
「かわいいですね。1年間しか着られていなかったので、捨てるにも捨てられず、クローゼットの奥底にしまい込んでいたので、こういう形で新しく生まれ変わったのはうれしい」
「忘れられない写真」とエピソードも―。
(舞さんのエピソード)
「この入学式の写真を見返すたび、隣で笑っていた彼女の声がよみがえります。制服は、あの頃の時間をそっと思い出させてくれる存在です」
高木舞さん:
「未来の話をすると、自分に子どもができたときに、これはママが着ていた制服なんだよ、かわいいでしょなんて、伝えるきっかけにもなるかもしれないとか思って、震災っていうのがあってねと、自分の子どもに伝えるきっかけにもなるかもしれない」
楽しかった思い出も、つらい経験も、次の世代につなげなければ―。
舞さんは、新たな活動を始める決意をしました。
■語り部として「あの日」を未来にー
舞さんは2025年12月から、双葉町の「災害伝承館」で、語り部として、被災経験を伝える活動を始めました。
高木舞さん:
「(3月12日の)夕方になり、周りが暗くなる中、ラジオから流れるニュースはどれも深刻でした。津波、原発、放射線、避難。そのとき父が小さな声でつぶやきました。『日本終わるぞ』。その言葉はもう冗談には聞こえませんでした」
当時の被害の様子、避難生活、会えなくなった幼なじみの話。一言一言、かみしめるように伝えます。
高木舞さん:
「災害はいつ起きるか分かりません。同時にこの日常もいつまでも続くとは限りません。だからこそ、きょう隣にいる人と交わす言葉や当たり前のように過ごしている時間を、きょうのお話を聞いていただいたことをきっかけに、これまでよりも少しだけ大切に感じてもらえたらうれしいです」
■「日常って日常じゃないのかな…」
千葉から:
「体験した人じゃないと語れない『震災は目の前にある』というメッセージ、大変感銘を受けて、自分たちも準備をしないといけないと思いました」
千葉から:
「大人の目線でしか知らなかったので、子どもたちがどう思っていたのかよくわかりました」
福島・伊達市から:
「(一緒に聞いた)娘が今10歳なんですけど、そういうのを経験したことがなかったので、自分もこういうところに来て、娘にも覚えていてもらいたい」
福島・白河市から:
「友達に会えない、また明日って言って会えなくなってしまったというのも、連絡がなかなか取れないというのも、日常って日常じゃないのかなって、日々を大事に過ごそうと思った」
■今、伝えたいことはー
高木舞さん:
「(伝えることは)難しいけど、当時って震災のあと本当に必死で、必死に一日一日を生きてきて、15年たって振り返ってみると、本当に大変な経験してたんだな、当時の自分って思えるので、落ち着いた今だからこそちゃんと自分の言葉で伝えていきたい
震災、そして原発事故から15年。被災地では復興が進む一方、震災の経験と向き合い続ける人も少なくありません。
今、伝えたいことは―。
高木舞さん:
「震災を通して、当たり前ってすごく幸せだったというのを気づけたので、日常ってすごく尊いもので、幸せなことなんだよというのを伝えられたら。震災があってから、私も一日一日を大切に生きていこうと思っているので、家族も、友人も、出会う人、皆さんに対して感謝の気持ちを持って大切に生きていきたい」