いわゆる徴用工らによる訴訟が日韓関係を根底から揺さぶる中、さらなる「爆弾」になりうる訴訟が、ついに韓国で始まる。慰安婦賠償訴訟だ。2016年12月、元慰安婦と遺族ら20人は日本政府を相手取り日本円で総額2億8000万円余りの損害賠償を求めて提訴した。その第一回口頭弁論が11月13日ソウル中央地裁で開かれる。

徴用工訴訟との大きな違いは、企業ではなく日本政府に賠償を求めている点だ。日本の裁判所で日本政府を相手取り損害賠償を求める裁判は、「国家賠償訴訟」と呼ばれ珍しいものではない。しかし、外国の裁判所で日本政府が被告になるのは異例の事だ。なぜ異例なのか?それは、国際法の世界では常識である法理があるからだ。

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主権免除とは?

その法理とは「主権免除の原則」だ。主権免除とは、主権国家は他国の裁判で被告にはならないというもので、19世紀に成立した国際慣習法だ。国の大小を問わず「主権」は平等であり、どんな国の政府も他国の裁判に従う必要は無いという考えから生まれた。

この国際慣習法がいかに大切なものなのかを理解するには、主権免除が無い世界を想像してみればよい。敵対する国家を被告にする裁判が各国で次々と行われ、裁判という場で他国の主権行為を断罪する判決が言い渡される事になるだろう。そうなれば、大国が小国の主権を侵害し、海外資産が差し押さえられる事態が頻発する。外交交渉とは全く別のフィールドで国家間の紛争が相次ぎ、国際社会の安定など望むべくもない。

日本政府は出廷しない

日本政府は2019年5月、「主権免除の原則から、日本国政府は韓国の裁判権に服する事は認められず、本件訴訟は却下されなければならない」と韓国政府に通達した。韓国の裁判権に服さないという事は、訴訟には参加しない事を意味する。つまり法廷には誰も行かず、欠席裁判になる見通しだ。主権免除が認められるのかは、偏に韓国司法にかかっている。韓国の裁判所が日本の主張通り主権免除を認め、訴えを却下するかというと、一筋縄にはいかない可能性がある。主権免除が適用されない例外があるからだ。

主権免除は万能ではない

現在の学説や各国の法令、国連裁判権免除条約(未発効)などでは、主権免除が適用されない例外規定が設けられている。外国国家と私人や私企業の取引でトラブルが生じた際など、国家による私法的・商業的な行為については主権免除を適用しないのだ。近年国家が私人や私企業と契約して事業を行う事例が増えている事から生まれた概念で「制限免除主義」と呼ばれる。日本には主権免除の例外を規定した「外国等に対する我が国の民事裁判権に関する法律」(2010年施行)があり、同様の例外規定がある。

主な例外規定はもう一つある。今回争点になる可能性がある「不法行為例外」だ。不法行為例外とは、大使館職員が業務中に交通事故を起こした場合に損害賠償訴訟の被告になるのか、主権免除の対象になるのかが争われる事例が発生した事から生まれた考え方だ。世界各国の判例では、こうした交通事故の場合には主権免除は適用されないという判断が下されている。日本の「外国等に対する我が国の民事裁判権に関する法律」10条でも「外国等は、人の死亡若しくは傷害又は有体物の滅失若しくは毀損が、当該外国等が責任を負うべきものと主張される行為によって生じた場合において、当該行為の全部又は一部が日本国内で行われ、かつ、当該行為をした者が当該行為の時に日本国内に所在していたときは、これによって生じた損害又は損失の金銭によるてん補に関する裁判手続について、裁判権から免除されない」と規定し、不法行為例外を認めている。

国際司法裁判所
国際司法裁判所

この不法行為例外が適用されるのかどうかが争われた国際裁判の事例がある。イタリアとドイツがICJ・国際司法裁判所で争った訴訟だ。発端はイタリアの民間人が第二次大戦中にドイツに連行されて強制労働させられたとしてドイツ政府に損害賠償を求めた訴訟で、イタリア最高裁はドイツ政府に賠償支払いを命じた。ベルギー、スロベニア、ギリシャ、ポーランド、イタリア、フランス、セルビア、ブラジルで同様の訴訟が行われ、これらの国ではドイツの主権免除が認められるなどして原告は敗訴したが、イタリアの裁判所では主権免除が認められず、ドイツ政府に賠償支払いを命じる判決が確定したのだ。ドイツ政府は2008年、主権免除を理由にイタリア最高裁の判決を無効とする事を求めICJに提訴。イタリア政府は、国家による不法行為は主権免除の例外という国際慣習法があると反論するとともに、ドイツの行為は重大な人権侵害でありドイツ政府を相手取った訴訟しか被害者を救済する手段が無いため主権免除の例外になるとも主張した。

世界的に注目された国際司法裁判所の判決は2012年に言い渡され、ドイツが勝訴した。
ドイツ勝訴という事実だけを見れば、今回の慰安婦賠償訴訟でも当然日本の主張が認められると考えがちだ。だが、ICJの判決を詳しく見てみると、そう簡単ではない事が分かる。

日本政府は勝てるのか?

ICJがドイツ勝訴を言い渡した主な理由は「武力紛争中の軍隊の行為については主権免除が適用されるとの国際慣習法が存在する」というものだった。また他に救済手段が無いとのイタリアの反論については、「国際慣習法になっていない」と却下した。「国家による不法行為については主権免除が適用されない」というイタリアの主張については、判断を示さなかった。

慰安婦賠償訴訟の原告側が、日本軍のどの行為を違法だと訴えているのかまだ判明していないが「日本統治時代の朝鮮半島で、詐欺的行為で女性を連れ出した」などと主張する事が予想される。その場合、「当時の朝鮮半島は武力紛争が起きていないので、主権免除の対象とならない」などと主張してくる可能性がある。また韓国司法は徴用工訴訟で日本の統治自体を「違法・不法」と断じていて、慰安婦問題に関する日本軍の関与についても「不法行為」と判断するのはほぼ間違いない。そして原告側はイタリア政府と同様に「不法行為は主権免除の例外」と主張する可能性がある。

こうした主張がなされた場合、韓国司法がどんな判断を下すのか?あの徴用工訴訟の判決を下した韓国司法が、すんなりと日本政府の主張を飲むのだろうか?主権免除が否定されれば、日本政府は完全敗訴する事になる。ただでさえ悪化している日韓関係は完全に破綻しかねない危機的状況になるだろう。

韓国政府が「最終的かつ不可逆的な」解決に合意した2015年の日韓合意を遵守して、すでに解散した財団を復活させれば、元慰安婦は1人当たりおよそ1000万円の支給を受けられる。救済措置の枠組みはすでに存在しているのだ。そして安倍首相も日韓合意の中で明確に謝罪している。韓国司法はこうした側面も考慮し、日韓関係を破綻に追い込む判断は避けるべきではないか。裁判の推移を注意深く見ていかなければならないだろう。

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執筆:FNNソウル支局長 渡邊康弘

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渡邊康弘
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FNNプライムオンライン編集長
1977年山形県生まれ。東京大学法学部卒業後、2000年フジテレビ入社。「とくダネ!」ディレクター等を経て、2006年報道局社会部記者。 警視庁・厚労省・宮内庁・司法・国交省を担当し、2017年よりソウル支局長。2021年10月から経済部記者として経産省・内閣府・デスクを担当。2023年7月からFNNプライムオンライン編集長。肩肘張らずに日常のギモンに優しく答え、誰かと共有したくなるオモシロ情報も転がっている。そんなニュースサイトを目指します。