よく酒を飲み、よく笑う。初対面の人ともすぐに打ち解けられるのは、天性のものなのだろう。

落水洋介さん(41)は、100万人に1人とも言われる「原発性側索硬化症(PLS)」を患っている。いずれ寝たきりとなる進行性の難病で、すでに自力歩行はできず、移動はいつも電動車いすだ。

落水洋介さん(41)
落水洋介さん(41)
この記事の画像(7枚)

普段は笑顔を絶やさない落水さんだが、葛藤もある。同居する年老いた両親に介護される日々。二人に心の中では感謝しつつも、面と向かうと冷たい言葉を浴びせてしまう。

そんな自分が嫌で、ついつい酒量が増えてしまう。

明るさと弱さ。その人間らしさに惹かれ、取材を始めた。

レモンサワーのグラスを傾けながら、落水さんが語った「夢」とは。

結婚披露宴の翌年に…体に起きた突然の異変

落水さんは1982年、福岡県北九州市で生まれた。運動神経バツグンのサッカー少年で、小学校の選抜チームでは、元日本代表の大久保嘉人さんとチームメイトだった。

大学卒業後は、美容品メーカーの営業マンとしてがむしゃらに働いた。フットワークの軽さと人懐こい性格で、社内外から愛された。

25歳で妻・文子さんと結婚。すぐに長女が生まれ、二人目の子どもの妊娠を機に、29歳の時にあらためて披露宴も挙げた。

落水さんと妻・文子さん
落水さんと妻・文子さん

式を記録した映像には、両親を前に「幸せな家庭を築き、恩返しができるよう、より一層頑張ります」と力強く誓う落水さんのスピーチが残されている。

ところが翌年、体に異変が起きた。

足がもつれ、呂律が回らない。いくつもの病院を回ったが、原因が分からない。PLS(原発性側索硬化症)と診断されたのは、異変から2年がたった時だった。その間に、歩行は困難となって一人で通勤することも難しくなり、職も失った。

PLSは、大脳から脊髄にいたる運動神経に障害が起きる進行性の病だ。同じタイプのALSよりも進行は緩やかとされているが、ALS同様に治療法は見つかっていない。

妻と、連日将来のことを話し合った。その結果、落水さんの方から、「家族に負担をかけられないから」と別居を申し出る。上の子は、まだ小学校へ上がったばかりだった。

そして2015年11月、33歳の時に、失意と不安の中で福岡県内に住む両親の元へ身を寄せた。

親への感謝といらだち 難病ゆえの葛藤

落水さんの両親は共に70歳を超えている。落水さんが「家に戻りたい」と伝えると、両親は温かく迎えてくれた。

落水さんのことを両親は献身的に介護した。

朝は主に父・徹夫さんの担当。服を着替えさせ、自家製の野菜ジュースを用意する。車は後部座席に車いすごと乗れるように改造し、落水さんが遠くへ外出する際はドライバーも務める。

一方、日中に訪問介護の仕事を始めた母・仁子さんは、毎日のように飲み歩く落水さんの帰宅を自宅で辛抱強く待つ。酩酊する息子が帰ってくると、玄関先からベッドまで背負って運び、下着も含めて着替えをさせ、顔から足先までを丁寧に拭いて寝かせる。

老いた両親にとっては荷が重いように見えた。

落水さんと母・仁子さん
落水さんと母・仁子さん

そんな両親に対し、落水さんは冷たい。何か問われても返事はぶっきらぼう。心配をよそに、連日飲み歩く。

落水さんは、病気になる前からお酒が大好きだったという。車いす生活になってからも、毎日のように飲む。近所の飲み屋のほとんどが知り合いで、落水さんのために、トイレに手すりをつける改装をした店もいくつかある。

酒に酔えば、思いがけず乱暴な言葉も出てしまう。

私たちは、必死で介護する仁子さんに「最悪」「死にたい」などの暴言を放つ落水さんも見た。

けれど仁子さんは意に介さない。「私は全然平気。そういう本音を言えるのも家だから」と笑って見せる。母の強さだろうか。

自立を目指して 合同会社「PLS」設立

両親に介護され、やりきれなさを酒で流す日々。けれど、そんな自分を変えたいという意思を持ち続けていたことが、少しずつ状況を好転させた。

きっかけは2016年頃から始めたブログだった。

電動車いすを入手する時に、窓口や方法がわからず苦労したことを機に、自身の体験や福祉の情報を発信し始めたのだ。やがてブログは評判となり、落水さんは講演などにも呼ばれるようになる。

前向きな気持ちが戻ってくると、持ち前の明るさもあって、支援の輪は広がっていった。

落水さんと合同会社PLSのメンバー
落水さんと合同会社PLSのメンバー

そして2018年、落水さんは合同会社PLS(Peace Love Smile)を設立。病気についての情報発信や、福祉の啓蒙活動などを行う会社だ。

社長の落水さん以外のスタッフは、ブログなどで知り合ったボランティア。メンバーは社会人が中心で、皆に共通しているのは落水さんに遠慮をしないこと。運営がおかしければ面と向かって批判もする。落水さんは慣れない社長業に悪戦苦闘しながらも、仲間たちとの時間の中で一つの夢を形にしようと動き出す。

夢は一人暮らしをすること

ディレクターの私が初めて落水さんと会ったのは、2023年2月。ファストフードの店で話をしたあと、落水さんの誘いで居酒屋へ行った。

落水さんは、レモンサワーのグラスを傾けながら一つの夢を語ってくれた。

「親元を離れ、一人暮らしをしてみたいんです」

介助が必要な落水さんにとって、厳密に一人きりでは生活できないものの、親に負担をかけずに生きたいというのだ。それは、親への葛藤の解決としてだけでなく、障害を持っていても自由に生きられる、ということを証明するためでもあるという。

一人暮らしの準備をする落水さん
一人暮らしの準備をする落水さん

具体化に向け、支援者の協力で自宅近くに一軒家を借り「おっちーハウス」と名付けた。階段に手すりをつけ、電動ベッドを搬入するなど、内装を少しずつバリアフリーに変えていく。

両親は「一人暮らし計画」に夢中になる落水さんを、うれしさ半分、不安半分で応援していた。

落水さんの場合、ヘルパーの支援は、障害保険などで月に120時間程度が認められている。24時間一人暮らしするにはそれでは足りない。落水さんは、ヘルパーを使える時間を増やすための仕組み作りにも奔走した。

そして2022年12月から、週に1回ヘルパーに宿泊してもらってのお試し一人暮らしがスタートした。

初めて実家を離れて外泊した日、落水さんは「小さな一歩です」と笑った。

大らかさが仇となり…大恩人を激怒させてしまう

落水さんには、恩人がいる。

実家の近所で不動産関連の会社を経営している黒谷さんだ。

2016年頃、境遇にふさぎ込む落水さんをブログで知り、落水さんの母校(黒谷さんの息子も当時同じ学校に通っていた)の体育祭へ無理やり連れ出したそうだ。それが契機となってさまざまな縁も生まれ、落水さんは再び人生に前向きになったという。

落水さんは黒谷さんを大恩人と慕い、取材中、たびたび杯を交わす二人の姿があった。

ところが2023年6月、二人の関係に亀裂が生じた。黒谷さんが、落水さんに愛想を尽かし「もう会いたくない」と伝えてきたのだ。

事情を聞けば、PLS社のボランティアスタッフの一人が、酒の席で黒谷さんに暴言を吐いてしまったそうだ。社長としてすぐに謝罪すべきところを、まあ大丈夫だろうと軽く考え後回しにしてしまった。それで関係がこじれてしまったとのことだった。

「自分が営業マンだった頃はこんな失敗はしなかった…」

落水さんは自分のせいだと幼子のように号泣した。その涙は、病気で変わってしまった自分への悔しさでもあった。

けれど、黒谷さんの落水さんへの思いは変わっていない。

2024年1月、二人は行きつけの居酒屋で偶然再会する。黒谷さんは落水さんの謝罪を受け止め、二人はまた元の関係に戻った。

落水さんの周りには、いつだって温かい人たちがいる。

「いつもありがとう」 両親に伝えた感謝の気持ち

仲間にも恵まれ、一人暮らしへの夢に向かって進み始めた落水さん。けれど、心にモヤモヤと残っていることがあった。

それは両親についてだった。

いつも冷たくあたってしまう父と母に、きちんと感謝の気持ちを伝えるべきではないか。落水さんは、私の取材を機にある決意をした。

電車へ乗って出かけたのは、実家近くの繁華街。花束を買おうと思っていた店は閉まっていて、代わりにうなぎ店で持ち帰りのうな重を注文した。母が疲れていた時に、「うなぎを食べたい」とつぶやいていたのを覚えていたのだ。

注文ができ上がるまでの間、落水さんは店のカウンターで照れ隠しのように瓶ビールを飲んでいた。

「いつも、ありがとう」

帰宅を迎えた母・仁子さんに、落水さんははっきりと伝えた。

落水さんの感謝の言葉に喜ぶ仁子さん
落水さんの感謝の言葉に喜ぶ仁子さん

息子から母への、初めての感謝の言葉。

「いい匂いがする」

仁子さんは目を潤ませながらうな重を受け取って、奥の部屋にいた夫の徹夫さんを「お父さ~ん」と大きな声で呼んだ。

落水さんのこれから

取材から1年あまりが過ぎた今、落水さんの体の力は少しずつ弱くなっている。けれど活動は精力的だ。今も、ヘルパーを入れて、週に1回は外泊を続けている。

また「おっちーハウス」では支援者と子ども食堂も始めた。誰とでも仲良くなれる落水さんは、地域の人が集まる“中心”にもなっている。

何より変わったのは親子の関係だ。母・仁子さんによれば、自宅では以前よりも親子のコミュニケーションが増えたという。

そればかりか、落水さんは母と二人そろっての講演も始めたそうだ。7月にも北九州市からの招きで、大きな会場に登壇する予定だ。舞台上で照れくさいように笑う落水さんと、誇らしげな仁子さんの姿が、目に浮かんだ。
 

(取材・記事:粂田剛)

ザ・ノンフィクション
ザ・ノンフィクション

2011年の東日本大震災から、何かが変わった。その何かがこの国の行方を左右する。その「何か」を探るため、「ザ・ノンフィクション」はミクロの視点からアプローチします。普通の人々から著名人まで、その人間関係や生き方に焦点をあて、人の心と社会を描き続けていきます。