修辞が凝縮された俳句と和歌
かつて、中世ヨーロッパの大学では「自由七科」という科目があった。文法・修辞・論理・算術・幾何・天文・音楽の七科目だ。神学、医学、法学という上級学部があり、その準備学問として哲学が置かれていた。「自由七科」は上級学部に進む前に、知識人としての基礎的教養を固める役割を果たしていたのである。この「自由七科」はのちにリベラル・アーツと呼ばれるようになり、日本語では「教養課程」と意訳された。そう、大学で1~2年次に履修する教養課程だ。つまり、中世の大学の制度は、形を変えて今の日本の大学に引き継がれているのである。
さて、もとに戻って中世の「自由七科」をよく見てみると、文法と修辞がそれぞれ独立しているのが注目される。文法は厳格な言語の構造を学ぶのに対して、修辞は「言葉を飾る」ことを主眼として、いかに効果的に相手に自分の考えを伝えるかが眼目になっていた。だから言葉だけでなく、身振りや発声法なども含まれていたらしい。
この修辞学は近代に入ってからも、ヨーロッパの各国で中等教育の科目として残っていたようだが、学問をひたすら欧米から輸入していた明治の日本では、科目としての修辞学は採用されなかった。個人的な考えだが、それにはちゃんとした理由があったのだと思う。つまり、科目として修辞学を独立させなくとも、修辞が凝縮された文化遺産を日本が持っていて、それを国語・古文で学べる仕組みができていたのだ――そう、俳句と和歌である。とりわけ、わずか17文字で情景や情感を表現する俳句は世界最短の定型詩だが、それを味わい、吟味することによって、自然に修辞学を学ぶことができるのである。俳聖・松尾芭蕉の俳句を見ればそれがよくわかる。
「荒波や佐渡によこたふ天の河」
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
いずれも名句の誉れ高い作品だが、この2つの句は修辞学でいうところの「擬人法」がさりげなく用いられている。人ではない天の川が横になって寝そべっている。また、物質的存在ですらない夢が枯野を駆けめぐるのである。
「閑けさや岩にしみ入る蝉の声」
これも、蝉の声がうるさいのに静か。また、岩に染み込むはずのない蝉の声が岩に染み入るという、大胆なレトリック(修辞)が使われている。
さらに注目されるのは、「サ行」が多用されていることである。「閑(しず)けさ」、「染(し)み入る」、「蝉(せみ)の声」といずれも頭韻として「サ行」が使われている。「サ行」は無声摩擦音といって、静かな音だ。英語では子音「S」で始まる音で、面白いことに「サイレンス(沈黙)」のような「静謐」を表す言葉もある。人差し指を唇に当てて「しぃー」とするジェスチャーもこれに類するもので、おそらく人類共通の音感なのだろう。これを考えると、芭蕉は「アイウエオ・カキクケコ」の五十音表を知っていたことになる。
何となく明治維新後に日本に導入されたイメージがある五十音表は、意外にもその歴史は古く、平安時代後期には天台宗の明覚という僧侶が「反音作法」というタイトルの五十音表を残している。母音はアイウエオ順だが、子音はアカサタナではなくアカヤサタナラハマワだった。この順にはちゃんとした理由があるが省略。要は、日本人は中国の音韻表などから、古くから子音と母音との関係を熟知していたのである。
文豪たちの俳句を読み解く
さて、今回紹介するのは『文豪と俳句』(岸本尚毅 著・集英社)である。ここで取り上げられているのは、幸田露伴・尾崎紅葉・泉鏡花・森鴎外・芥川龍之介・内田百閒・横光利一・宮沢賢治・室生犀星・太宰治・川上弘美・夏目漱石・永井荷風の13人の文豪たちである。
この本を読むと、17文字文芸の精妙さと、それに心血を注ぐ作家の姿が浮かび上がってくる。しかも彼らは小説が本業で、句作はいわば余技なのである。すべての作家を取り上げるには紙幅が許さないので、ここでは露伴・龍之介・犀星・漱石・荷風の5人の作家の俳句を見てみたい。
「老子霞み牛霞み流沙かすみけり」(幸田露伴)
著者によると、牛に乗った老子は水墨画の定番といっていい画題らしい。老子が戦乱を避けて牛に乗って西方に向かったイメージで、ここでは流沙が西域を表現している。老子と牛に「霞み」と漢字を使っているのは中国の桃源郷世界をイメージさせ、流沙に「かすみ」とひらがなを用いているのは、桃源郷から砂漠への転換をはっきりさせるためだと著者はいう。さらに、「漢字にうるさい露伴ですから、『流』と『沙』のサンズイにさらに『霞』のアメカンムリが加わると、句が湿気っぽくなると思ったのかもしれません」と分析している。なるほど、細部に神経が行き届いているのである。
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」(芥川龍之介)
この俳句は誰もが見聞きしたことがあるだろう。とても有名な一句だ。わずか17文字の中で、龍之介の鋭い才知、ユーモア、近代性が際立っている。先の露伴の俳句と比較すれば、それがよくわかる。露伴の重厚な東洋的教養と龍之介の軽やかな西洋的センスが好対照になっている。もちろん、「軽やか」といっても、パッと浮かんで即興的に句を作るというものではない。
〇「初秋の蝗(いなご)つかめば柔かき」
「初秋や蝗(いなご)つかめば柔かき」
「初秋や蝗(いなご)握れば柔かき」
〇を付けた句が採用句だが、著者は龍之介の推敲の過程について「握るかつかむか。蝗をつぶさないように持つなら『握る』でなく『つかむ』です。上五を『や』で切るかどうか。『初秋や』と切れば句に広がりが出ます。『初秋の蝗』とすると初秋の蝗のうら若い感じが出ます。芥川は繊細な感覚で、最適な表現を模索しました」と推理する。
「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの…」(室生犀星)
『あにいもうと』『杏っ子』などの小説で有名な犀星は、詩人でもあった、というより詩歌から小説の世界へ入った人である。この散文詩の冒頭は有名だが、よく見ると五・七・五・七・五の五七形式になっている。やはり口調がいいのである。
「何の葉のつぼみなるらん雑煮汁」(室生犀星)
私生児として生まれ、貧窮の中で詩人を志して上京、北原白秋や芥川龍之介などとの交流を深めた苦労人の生活者らしい、地に足がついた日常の一齣を活写している。しかし簡単に作ったように見えるこの句も、実は「音韻に凝った句」であると著者は分析している。先の評者が書いた芭蕉の「サ行」の句もそうだが、音律は俳句の中で非常な重要な要素であることがよくわかる。
永井荷風と夏目漱石に関しては、著者は「句合わせ十番勝負」と銘打って、同じ題目での俳句を戦わせている。次の二句はその第7戦で題目は「蠅」。
「筆たてをよきかくれがや冬の蠅」(永井荷風)
「えいやつと蠅叩きけり書生部屋」(夏目漱石)
俳人の高柳克弘は、荷風の句について「売文の徒であるみずからを、筆立ての陰に隠れ住む冬の蠅とみなしている。着想も面白いが、筆立ての陰で埃まみれになって息をひそめているというのはいかにも冬の蠅らしく、実際に机上でこうした眺めに接したのではないかと思われるほど、イメージにリアリティがある。(『美しい日本語 荷風Ⅲ』)」と評している。
著者は「眼前の蠅と暗喩としての蠅とが二重写しになっているところがこの句の妙味」だと指摘している。一方漱石の句は、誰が読んでも「漱石の句だなぁ」と感心するはずだ。著者のいうとおり、「えいやつと」は単純明快だ。何となく「坊ちゃん」を彷彿とさせるものがある。「書生部屋」も「吾輩は猫である」とつながったイメージがある。
俳人の神野紗希氏は、漱石の句について「下宿の書生さんの部屋から『えいやっ』と気合の入った声。何かと思えば、蠅を叩いただけという、トホホな一句。学生時代というのは、とかくエネルギーを無駄遣いしがちだ。力が有り余っていながら、その使い道が見つかっていない、モラトリアムの時代。そのもどかしさを、掛け声と『けり』の切れ字で振り切った。案外、蠅は捕り逃がしてしまい、昼寝していた同室の書生を叩いて起こす結果となったかもしれない。(『日めくり子規・漱石』)」と、軽い文体で鋭く切り込んでいる。
「安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり」(夏目漱石)
神野氏は、長女・筆子が生まれたときに漱石が詠んだこの句についても「産む側からしたら『安々と、なわけないやん、痛いっつーの』『もっとかわいい比喩あるやろ』と突っ込みたいが、海鼠のリアルさが、妻に付き添った愛を証明しているので、許す(『日めくり子規・漱石』)」と愛情あるイチャモンをつけている。この女流俳人は1983年生まれ。先の荷風の「蠅」を評じた高柳克弘の細君で、この句評を書く直前に出産している。だからなのか実感を伴った評が半端でない。
こうしてみると、近代に入ってからの俳句はやや難しくなった感じを受ける。やはりこれも進歩といえるものなのだろう。一方で、芭蕉や蕪村、一茶の、ある時はおおらかな、またある時は鋭く切り取る写実性に欠けているような気がするのは評者だけだろうか。
「市中(いちなか)は物のにほひや夏の月」(凡兆)
「あつしあつしと門々(かどかど)の声」(芭蕉)
これは連句と呼ばれるもので、発句の凡兆は芭蕉門下である。ひとまとめにすると、
「市中は物のにほひや夏の月 あつしあつしと門々の声」
夏の都会の夕暮れの活況を、見事に活写している。また、凡兆と芭蕉の息の合わせかたも素晴らしい。俳句はわずか17文字の文芸だが、その世界は無限といっていい広がりを持っているのである。
【執筆:赤井三尋(作家)】