1984年まで存在した、国鉄「尼崎港駅」
駅名の看板が、今なんと兵庫・伊丹市内の道路脇にポツンと立っているという。
尼崎港駅は、なぜ廃止され、どのような経緯で伊丹市にあるのだろうか。
鉄道を愛する、関西テレビの神戸支局長がその歴史をたどった。

なぜ? 尼崎港駅の名残を「伊丹市」で発見

「尼崎港駅の駅名看板が、なぜか伊丹市の道路脇に立っている」
昔こんな話を聞いたことがある。
尼崎港駅は既に存在しない。
1984年(昭和59年)に廃止された駅で、当時はまだ国鉄(日本国有鉄道)だった。

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(尼崎港駅  提供:尼崎市立歴史博物館あまがさきアーカイブズ 1975年撮影)

その看板の場所をインターネットで検索しても、どうも場所が分からない。
世の中には色んな人がいるから、盗難に遭わないように詳しい場所を明かしていないのだろう。
検索で出た画像の背景から場所の特定を試みる。
こういうのは昔から得意だ。
自分たちの知らないニュースが他社で放送された時、こうやって場所を探し出して追いかけた経験が生きる。(全然自慢にならない)

伊丹市内の道路脇に、それは確かに存在した。
改めて言うが、ここは尼崎市ではない。
海も港もない内陸の町・伊丹市である。
看板は住宅の敷地内に立っている。

ここに住む女性に聞くと、看板はこの住宅の所有者のものだそうで、連絡先を教えてくれた。
数日後、所有者の男性と会って詳しく話を聞くと、ここにこの看板が存在する意外な理由が分かった。

(看板の所有者・新田秀伸さん)

国鉄時代に廃止 「尼崎港駅」とは?

所有者の新田秀伸さん(57)は、現役のJR西日本の社員である。
1982年(昭和57年)に旧国鉄に入り、最初に配属されたのが尼崎港駅だったという。
国鉄の新入職員たちに配られた貴重な資料を見せてくれた。

(入社時に配られた冊子類は国鉄マンの証)

尼崎港駅とはどんな駅だったのか。
世の中に残っている資料はとても少ないが、新田さんが見せてくれた国鉄の内部文書には、駅の歴史がすべて書かれていた。
開業から国有化まで、明治時代の出来事はこう記されている。

1891年(明治24年)…川辺郡馬車鉄道会社が仮停車場を設け「尼崎駅」と称し尼崎~伊丹間営業開始
1893年(明治26年)…摂津鉄道が軽便鉄道に改め伊丹~池田間新設
1897年(明治30年)…阪鶴鉄道が買収、本軌道に改める。旅客扱廃止、阪鶴鉄道大阪荷扱所及び神戸荷扱所と阪鶴線及び因句航路に発着する貨物の中継を行う
1907年(明治40年)…鉄道法により政府買収

これによると、馬車鉄道から軽便鉄道、一人前の鉄道となり、国有化されて福知山線の支線(通称:尼崎港線)の起点駅となったという。
ちなみに、かつての「尼崎駅」や「尼ヶ崎駅」とはこの駅のことを指し、現在の尼崎駅は、1949年(昭和24年)まで「神崎駅」と称した。

(尼崎港駅構内には無数の線路が。尼崎港駅「昭和56年度駅勢要覧」より)

尼崎港駅からは、日本硝子(現・日本山村硝子)、旭硝子(現・AGC)、住友金属工業(現・日本製鉄)の3工場に引き込み線が伸びていた。
見事にみんな会社名が変わっている。
尼崎港線はほとんど貨物線の様相で、お客さんは工場労働者の通勤以外はオマケ程度だったと推察される。

(駅舎は工事中の阪神高速真下に移設 提供:尼崎市立歴史博物館あまがさきアーカイブズ 1979年撮影)

今はオークション 昔は鉄くず?

そして1981年(昭和56年)、旅客営業が廃止され貨物専用駅になり、お客さんに案内する駅名の看板はもう不要となっていた。
駅長が「看板いらんやろ。築山に置いとくから俺にくれ」と、構内の片隅に置いていた。

今ならこうした看板は鉄道会社がオークションに出品することがあるが、当時は不要になれば鉄くず扱いが普通だった。
駅長が欲しがったことで、看板は鉄くずにならずに生き残ったのだ。

(新田さんは「構内係」だった 。尼崎港駅「昭和56年度駅勢要覧」より)

廃止の裏側で…駅員たちだけの「オークション」

翌年に入社し尼崎港駅に配属された新田さん。
1984年(昭和59年)に貨物駅としても廃止されることが決まった。

当時は駅が廃止される時、駅員の間で備品の「オークション」が行われたという。
鍋や電気ポットなど、自分が欲しいと思う備品の裏側に、金額と名前を書いた紙を貼る。
さらに欲しい人がいれば、より高い金額を書いた紙を上から貼る仕組みだ。

オークションの収益は駅員たちの飲み代となる。
何ともおおらかな時代だ。

(駅舎の平面図。廃止後は取り壊された。 尼崎港駅「昭和56年度駅勢要覧」より)

新田さんが駅長に看板が欲しいと伝えると、「あの看板いるんか。やるわ」とすんなり話がついた。
新田さんは早速、看板の裏側に「1500円」と書いた紙を貼った。
入札に挑む駅員は他に誰もおらず、晴れて落札。
友人に頼んで軽トラックで自宅に持ち帰ったそうだ。

(新田さんが撮影。駅員でないと撮れない構図)

100倍の値がついた看板…鉄道員の抱く夢

その後、愛好家が訪ねて来て「15万円」を提示し、買い取り交渉をしてきたことがあった。
100倍の値がついたわけだが、「思い出があるから」と手放すことはなかったという。

その後、色が濁り錆も目立ってきたため、塗装業者に塗り直してもらった。
塗り直しの技術は素晴らしく、塗り分けも忠実に行われ、今も往時の輝きを保っている。

一応、盗難防止のため根元はコンクリートで固めてあるが、「盗んでいく人なんていないでしょう」と新田さんは笑う。

(塗り直しの甲斐あって今も美しい)

新田さんはその後、車掌となった。
寝台特急「トワイライトエクスプレス」のほか、新しい観光特急「WEST EXPRESS 銀河」の一番列車にも乗務したというから、技術も接客もトップクラスの車掌だったことは間違いない。

33年間の車掌生活を終え、今は駅員に戻っている。
定年退職まで2年あまりとなったが、「シニア社員の制度があるので65歳まではそのまま働きますよ」と意気込む。
自宅に眠る国鉄時代の貴重な資料や、全巻コンプリートした時刻表などを展示して、色んな人に見てもらいたいという夢もあるそうだ。

鉄道に魅せられた男の幸せそうな鉄道員人生は、まだまだ続きそうだ。

(関西テレビ神戸支局長 鈴木祐輔)

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