大統領選立候補者についての誤解

イラン当局は5月25日、大統領選挙(6月18日投票)に立候補することが認められた候補者7人を発表、日本のメディアはこれについて一斉に「反米保守強硬派のライシ氏が最有力候補」と報じた。

しかしこれは様々な点において誤解を招く報道である。

「最有力候補」と報じられているライシ氏
「最有力候補」と報じられているライシ氏
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第一に、こうした報道はあたかも「親米」候補がいるかのような印象を与えるが、イランは自他ともに認める反米国家であり、体制自体が反米である。親米の大統領候補者というのはこの構造上、存在しえない。

第二に、こうした報道はあたかも「革新派」や「リベラル派」の候補がいるかのような印象も与えるが、イランはイスラム法学者が実権を掌握する「法学者による統治」という統治体制を敷いており、大統領はあくまでも「行政官」の位置付けである。誰が選挙で大統領に選出されようと、必ず最高指導者ハメネイ師の意向に従わなければならない。そもそもハメネイ師のお眼鏡にかなわない人物は候補者にすらなれない。革新やリベラルの大統領候補者というのは存在し得ないのだ。

第三に、こうした報道はあたかも「穏健派」の候補者がいるような印象も与えるが、メディアの主張するイランの「穏健派」の実態は、私たちが一般に認識する「穏健派」のイメージとは全く異なる。

イランにおける「穏健派」の実態

たとえば現在のイラン大統領であるロウハニ氏のことを、メディアは常に「穏健派」と描写してきた。

しかしロウハニ氏の任期中、2019年11月には革命以来最大規模の反政府デモが全国で発生、ロイター通信は参加者1500人以上が当局によって殺害されたと伝えた。またイラン当局はこのデモの参加者7000人以上を拘束したと発表、国際人権NGOアムネスティ・インターナショナルは拘束された人々の中には10歳未満の子供や女性も含まれ、彼らの多くが水責めや電気ショック、鞭や棒による殴打の他、性的虐待などを受けて拷問され、自白を強要されていると報告した。

イランのロウハニ大統領
イランのロウハニ大統領

人権活動家やジャーナリストの拘束や処刑、レスリング選手など著名人の拘束や処刑、女性や少数派、LGBTに対する差別や人権侵害、弾圧の例も相次いで報告されている。

アメリカのシンクタンク民主主義防衛財団(FDD)は、イランが年間160億ドル以上を中東各地のテロ組織や「ならず者国家」に提供していると報告したが、一方でイラン国民の50%以上が貧困ライン以下の生活を送っているという現実がある。先日までイスラエルにロケット弾を撃ち込んでいたガザのハマスも、イランが支援しているイスラム過激派テロ組織のひとつだ。

こうした事態を招いている政権のトップに立つロウハニ氏には、「穏健派」の片鱗すら見出すことはできない。メディアはロウハニ氏が核合意などでアメリカとの交渉に応じたから「穏健派」なのだと主張する。しかしそれは、交渉という「戦術」が最高指導者の意向に従っており、それが体制の利益になるという判断に立脚しているに過ぎない。これを「穏健派」と呼ぶのは、明らかなミスリードだ。

6月の大統領選で最有力候補とされるライシ氏も、「イスラム法学者」「司法府でキャリアを積んだ」などと説明されているが、ライシ氏の人物像を適切に描写しているとは言い難い。

「死の委員会」の一員だったライシ氏

ライシ氏は2019年からイランの法相を務めているが、何よりも若い頃から長年にわたり、検察官として反体制派の弾圧、処刑に関与してきたことで知られる。特に1988年、当時の最高指導者ホメイニ師の勅命によって実行された反体制派大弾圧の責任者の1人とされていることは重要だ。

ホメイニ師は1988年にいわゆる「死の委員会」を設立、政治犯として拘束されていた反体制派モジャヘディン・ハルク機構(PMOI)の支持者らを直ちに処刑するよう命じた。ライシ氏はその「死の委員会」の一員だった。

数千人から数万人にのぼるとされる犠牲者の遺族を代表するNGO「1988年イラン大虐殺の犠牲者のための正義(JVMI)」は、家族には事前に何も知らされぬまま処刑は秘密裏に行われたため、最後のお別れをする機会もなかった、彼らは6人ずつクレーンに吊るされて処刑され、遺体には消毒液がかけられ、夜のうちに集団墓地に密かに埋められた、としている。

しかしイラン当局は、今もその事実を認めていない。

報道陣に囲まれるライシ氏
報道陣に囲まれるライシ氏

2021年5月には150人以上の元国連職員や人権専門家が、この1988年イラン大虐殺について調査を行うよう要求する書簡を国連に提出、これを受け取ったミシェル・バチェレ国連人権高等弁務官は「人道に対する罪」に相当する可能性に言及した。

イランの次期大統領になる可能性の高い人物にそのような背景があることを、メディアは隠したり誤魔化したりすべきではない。

【執筆:イスラム思想研究者 飯山陽】

飯山陽
飯山陽

麗澤大学客員教授。イスラム思想研究者。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。著書に『イスラム教の論理』(新潮新書)、『イスラム教再考』『中東問題再考』(ともに扶桑社新書)、『エジプトの空の下』(晶文社)などがある。FNNオンラインの他、産経新聞、「ニューズウィーク日本版」、「経済界」などでもコラムを連載中。