【デッドボールから立ち上がった清原氏の温かな笑み】
12月5日、東京都内のグラウンドにひときわ目を引く大きな男性が立った。プロ野球界の元スーパースター清原和博氏。この日行われたのは、清原氏が役員を務める財団が主催する少年少女野球教室だ。

そして野球指導を終えた後、サプライズイベントとして行われた小学生投手との対決でバッターボックスに入った清原氏。プロ通算525本のホームランを生んだ往年のスイングを披露していると、なんと少年の投じたボールが2度にわたって清原氏の体を直撃した。

グラウンドにうずくまった53歳の元プロ野球スーパースター。しかしバットを杖に立ち上がると、投球した少年に帽子をとって笑顔で一礼した。その表情は少年のように朗らかで温かい笑みだった。

【涙の復帰から1年…清原氏の現在地は】
2016年に覚醒剤事件を起こした清原氏は、薬物依存症との闘いを続けてきた。そして1年前の2019年12月、少年野球教室などの表舞台に復帰すると、大粒の涙を流し次のように語った。

「本当にこんな日が来ると思わなかったんで。自分1人ではここまで来られなかった。いろんな人の支えがあったからこそ今ここに立てているのかなと。この感謝の気持ちを忘れず、たくさんの仲間たちと、応援してくれるファンの方々、そして息子たちのためにも、本当に頑張っていこうと思います」

それは辛い日々を支えてくれた友人たち、そして家族への感謝の涙であり誓いだった。あれから1年、清原氏は今どのように生き、何を目指そうとしているのか。フジテレビの単独インタビューに応じた清原氏は、まずこの1年間の自身について、次のように語った。

「自分の中で大きな出来事としては、今年の6月に執行猶予が明けたっていうことが一番の大きな出来事でしたね。4年間の執行猶予だったんですけども、それが、すごく最初は長いなと思ったんですけども、いざ明けてみると、あっという間の4年間で。自分の中の焦りっていうのは、すごくありましたね」

【執行猶予明けで感じたプレッシャーと焦り「喜び半分、苦しさ半分」】
喜ばしいはずの執行猶予明けなのだが、そこで清原氏が感じたという「焦り」。それはどのようなものだったのだろうか。

「執行猶予が明けた。自分は何も変わってないんですけど、自分の周りの方々とか『やっと明けたね!』ということで変なプレッシャー、そういうのをすごく感じました。だから、ほとんど怒濤のごとく毎日が過ぎていった感じで、そのスピード感に自分がついて行けない感じですね。未だにその実感っていうのは沸かないんですけど、明けたときはこのまま執行猶予の方がよかったんじゃないかなっていうぐらい。自分の健康状態も含めて、みんなどんなスタート切るんだろうとか、そういうこと思われてんのかなとか。自分自身できることも限られていますし、そういう意味では明けた喜び半分、苦しさ半分って感じです」

このように、執行猶予明けに感じた複雑な感情を吐露した清原氏だが、焦りを抱きつつも、自分のペースを守るかのように毎朝自宅で必ず行っていることがある。自身を支え続けてくれた母の遺影と、恩人である仰木彬元監督の遺影に水を供え、手を合わせることだ。

【「去年より前進している」薬物との向き合いとコロナ禍の生活】
そして1年前に「一日一日気を引き締めて生きていくしかない」と語っていた薬物との向き合いについて、清原氏はより前向きな変化を実感していた。

「自助グループっていうのがあるんですけれども、そこに参加しだして、仲間たちと自分たちの苦しみを分かち合えるっていうこと。グループミーティングに参加したことで、すごく心が楽になってきました。去年の今より今日の方が前進しているのは間違い無いです」

清原氏が確かに感じていた「前進」の手ごたえ。しかし今年はそこに新型コロナウイルスという新たな敵が立ちはだかった。清原氏はコロナについて語る。

「コロナの大変な中で家にいる時間も多かった。目に見えない敵なんで、戦いようがないんですよね。毎日ニュースで(感染者が)何人出た。著名な方も出たっていう、そういうニュースを聞きながら、僕も持病があるもんですから、糖尿病っていう。それでも少年たちに教えたり野球することによって、できる範囲のことでやってきましたんで、野球は自分の精神的な部分を救ってくれたかなって感じはします」

【コロナ禍で支えとなった野球…しかし受難の野球界】
清原氏にとっても大きな災いであるコロナという目に見えない大敵。しかし、自らがかつて「命をかけているもの」と言い切った「野球」が心を救い、「自分には野球しかないと再認識した」という。ただしコロナはその野球にも容赦なく襲いかかり、プロ野球も一時無観客試合を余儀なくされた。

「プロ野球っていうのは1つの興行ですからお客さんが入って、お客さんのチケット代で、自分たちは給料もらっているわけであって、無観客の中で公式戦をやるっていうのは、選手にとっては本当にファンのみなさんの声援のありがたみっていうのが、すごい理解できたような。僕だったら多分、お客さんが入ってない中での試合で打席に入ったら、集中力が半分も出ないんじゃないかなっていう感じはしますね」

そして清原は自らの原点である聖地・甲子園と高校球児たちに思いを馳せた。

「1番心を痛めたのは夏の高校野球中止。僕の原点の夏の甲子園中止っていうのが、やっぱり今でも心に残っていますんで」

しかも今年は高校野球だけではなく、少年野球など多くの大会が中止となり、野球少年・野球少女たちは夢を奪われた。そんな状況に清原氏は「そんな時だからこそやるべきことがある」と立ち上がった。

【少年たちへの熱血指導で見せた笑顔】
12月5日、自身が役員を務める「グリーンシード・ベースボール財団」が主催して、西武ライオンズ時代ゆかりの地でもある西東京市で少年野球教室を開催した。そこには清原氏と親交の深いプロ野球OBとして、デーブ大久保、立浪和義、笘篠誠治・賢治兄弟、橋本清、藤田太陽、玉野宏昌の各氏がコーチとして駆けつけた。教室の冒頭、参加者の小学6年生は、次のようにあいさつした。

「僕のチームは全国大会を目指して練習してきましたがコロナの影響で中止になってしまいました。6年生でやる予定だった大会も大半なくなってしましました。しかし最後にこのような機会を作っていただきありがとうございます。学べることがあれば少しでも身にして帰りたいと思います」

このあいさつを神妙な表情で聞いていた清原氏は、バットとマイクを手に、少年少女たちを手取り足取り熱血指導した。打撃ではタイミングをとること、下半身を使い腰を回すことがいかに大事かを真剣な表情で力説し、指導の効果が表れると「そうそうそう!」「ほら飛んだ!」とニッコリ微笑んだ。

レジェンドの直接指導を受けた少年は「あんなすごい人に教えてもらえるのがすごい嬉しいです」と笑顔を弾ませ、少女は「いいアドバイスをもらい、凄くいい時間だった」と喜びを語った。

【強い雨の中で見せた充実感】
指導を終えた清原氏は記者団の取材に応じ、「本当にまさかのデッドボールを受けると思わなかった。現役時代ぶりに当たった…このどてっ腹に」と笑うと、少年少女たちとの触れ合いを振り返った。

「今年はコロナということで、子供が言っていたように思うように野球ができなかったり試合が中止になったり本当に大変で、小学校6年で区切りの年にそういうことがあったということで、自分たちわずかな力だが子供たちに思い出が残せたらよかったと思う。本当に楽しい野球ができてよかったです」

その後、強い雨が降りしきる中、新庄剛志氏のトライアウト挑戦や松坂大輔投手の復活への道など、ここ最近の野球界に関する記者団の様々な質問に答え続けた清原氏。初冬の冷たい雨に濡れたその顔には、初春のような温かな微笑みと充実感が漂っていた。

【清原氏の新たな挑戦「清スポ」始動へ】
そして清原氏はこれから、完全復活への一歩として新たな挑戦に踏み出す。それが自身のYouTubeチャンネルの開設だ。名称は「清ちゃんスポーツ」略して「清スポ」、12月12日からスタートするという。清原氏はインタビューでこう語っている。

「自分もこれからもういつまでも立ち止まっていてもしょうがないんで。一歩踏み出して、世間の皆さんに『清原、動き出したか』と思ってもらえるような活動をしていきたいと思っています。まあ、たいしたことは出来ないですけどね。もう日々勉強で、色んな人の協力を得て少しずつ。やはり甲子園を目指す少年野球・中学・高校生、そういう子達のためになるようなものが出来たらいいなと思います」

【清原氏の「夢」とメッセージ】
清原氏はこの「清スポ」を通じ、野球少年たちのためにプラスとなる発信をしていくと共に、自分自身の近況も伝えていきたいという。さらに、その先に清原氏が見すえる「夢」についても聞いてみると、少しはにかみながらこう答えた。

「夢ですか。色々ありますよ。自分の夢もありますし、自分には息子2人いますんで、夢もありますし、プライベートの夢もありますし。清原和博としての個人的に出来る事はなんだろうなっていっぱい考えながら、わくわくすることもありますし。その反面、一体俺は何が出来るんかなみたいなそういう不安もあります。期待半分不安半分ぐらいですかね」

このように具体的な夢は胸に秘めつつ、謙虚に語った清原氏。最後にカメラを通じこうメッセージを送った。

「自分も頑張りますんで、とりあえず今年は皆でコロナに勝てるように頑張りましょうということですね。世の中の皆さんもコロナで本当に大変な思いをしている中、自分も頑張ってやっていきたいなと思っています。本当に世界中が大変なことになっていますから、祈る…祈るだけじゃだめだな。皆さんが元気になるようなことを自分が発信できたらいいなと思っています」

(フジテレビ報道局)